って銀座を歩いていた。老い疲れたる帝国大学生、袖口《そでぐち》ぼろぼろ、蚊の脛《すね》ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜《うり》二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。
 舞台では菊五郎の権八が、したたるほどのみどり色の紋付を着て、赤い脚絆《きゃはん》、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉《きじ》も泣かずば撃たれまいに」と呟《つぶや》いた。嗚咽《おえつ》が出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑《しんかん》としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷《ちまた》には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米《しんまい》、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉《く》れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたときには、書物を売り、きまって三円なにがしのお金をつくり、浅草の人ごみのなかへまじり込む。その店のちょうし一本十三銭のお酒にかなり酔い、六人の女中さんときれいに遊んだ。その六人の女中のうち、ひとり目立って貧しげな女の子に、声高く夫婦約束をしてやって、なおそのうえ、女の微笑するようないつわりごとを三つも四つも、あらわでなく誓ってやったものだから、女の子、しだいに大学生を力とたのんだ。それから奇蹟があらわれた。女の子、愛されているという確信を得たその夜から、めきめき器量をあげてしまった。三年まえの春から夏まで、百日も経たぬうちに、女の、髪のかたちからして立派になり、思いなしか鼻さえ少したかくなった。額《ひたい》も顎《あご》も両の手も、ほんのり色白くなったようで、お化粧が巧くなったのかも知れないが、大学生を狂わせてはずかしからぬ堂々の貫禄《かんろく》をそなえて来たのだ。お金の有る夜は、いくらでも、いくらでも、その女のひ
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