宿の朝ごはんの後、熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもと、それがために五分おくれて、大事になったとのこと、二人の給仕もいれて十六人の社員、こぞって同情いたしました。私なども編《あみ》あげ靴の紐《ひも》を結び直したばかりに、やはり他社のものに先をこされて、あやうく首切られそうになったかなしい経験がございます。高橋君は、すぐ編輯長に呼ばれて、三時間、直立不動の姿勢でもって、説教きかされ、お説教中、五たび、六たび、編輯長をその場で殺そうと決意したそうでございます。とうとう仕舞いには、卒倒、おびただしき鼻血。私たち、なんにも申し合わせなかったのに、そのあくる日、二人の給仕は例外、ほかの社員ことごとく、辞表をしたためて持って来ていたのでございます。そうして、くやしくて、みんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまって、ことにも私、どうにもこうにも我慢ならず、かたわらの友人の、声しのばせての歔欷《きょき》に誘われ、大声放って泣きました。あのときの一種崇高の感激は、生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。ああ、不要のことのみ書きつらねました。おゆるし下さい。高橋君は、それ以後、作家に限らず、いささかでも人格者と名のつく人物、一人の例外なく蛇蝎視《だかつし》して、先生と呼ばれるほどの嘘《うそ》を吐《つ》き、などの川柳《せんりゅう》をときどき雑誌の埋草《うめくさ》に使っていましたが、あれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。よほどの事が、あったにちがいございませぬ。昨年の春、健康いよいよ害《そこ》ねて、今は、明確に退社して居ります。百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、掬《すく》えると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいに剃《そ》り落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫《あいぶ》に依《よ》り金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、私の膝頭《ひざがしら》が音たててふるえるので、私は、電気をつけようと嗄《しわが》れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった
前へ
次へ
全59ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング