足もあり、幽霊でないということが判って、父は憤怒の鬼と化し、母は泣き伏す。もとより私は、東京を離れた瞬間から、死んだふりをしているのである。どのような悪罵《あくば》を父から受けても、どのような哀訴《あいそ》を母から受けても、私はただ不可解な微笑でもって応ずるだけなのである。針の筵《むしろ》に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。
ことしの夏も、同じことであった。私には三百円、かけねなしには二百七十五円、それだけが必要であったのである。私は貧乏が嫌いなのである。生きている限りは、ひとに御馳走をし、伊達《だて》な着物を着ていたいのである。生家には五十円と現金がない。それも知っている。けれども私は生家の土蔵の奥隅になお二三十個のたからもののあることをも知っている。私はそれを盗むのである。私は既に三度、盗みを繰り返し、ことしの夏で四度目である。
ここまでの文章には私はゆるがぬ自負を持つ。困ったのは、ここからの私の姿勢である。
私はこの玩具という題目の小説に於いて、姿勢の完璧《かんぺき》を示そうか、情念の模範を示そうか。けれども私は抽象
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