警察署長がやって来ました。
 何やら、どうも、ただならぬ気配です。あがれ、と言っても、あがりません。この署長はひどく酒が好きで、私とはいい飲み相手で、もとから遠慮も何も無い仲だったのですが、その夜は、いつになく他人行儀で、土間に突立ったまま、もじもじして、
「いや、きょうは、」と言い、「お願いがあって来たのです。」と思いつめたような口調で言う。これはいよいよ、ただ事でないと、私も緊張しました。
 私は下駄《げた》をつっかけて土間へ降り、無言で鶏小屋へ案内しました。雛《ひな》の保温のために、その小屋には火鉢を置いてあるのです。私たちは真暗い鶏小屋にこっそりはいります。私たちがはいって行っても、鶏どもが少しも騒がなかったほど、それほどこっそり忍び込んだのです。
 私たちは火鉢を中にして、向い合って突立っていました。
「絶対に秘密にして置いて下さい。脱走事件です。」と署長は言う。
 警察の留置場から誰か脱走したのだろう、と私は、はじめはそう思いました。黙って、次の説明を待っていました。
「たぶん、この町には、先例の無かった事でしょう。あなたの御親戚《ごしんせき》の圭吾《けいご》さん、ね、入隊
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