いうのは案外なもので、ちょっと綺麗《きれい》な女とふたり切りで、よもやまの話などをしているうちに、何か妙な気がして来る事があるのです。あなたは、どうでしょう。いや、私は普通よりも少し色気が強いのかも知れません。実は、私はこんな薄汚い親爺《おやじ》になり下がっていながら、たいていの女と平気で話が出来ないたちなんです。まさか私は、その話相手の女に、惚《ほ》れるの惚れられるの、そんな馬鹿な事は考えませんが、どうも何だか心にこだわりが出て来るのです。窮屈なんです。どうしても、男同士で話合うように、さっぱりとはまいりません。自分の胸の中のどこかに、もやもやと濁っているものがあるような気がしていけません。あれは、やはり、私の色気のせいだと思うのですが、どんなものでしょうか。しかしまた、私にそんなこだわりを全然、感じさせない女のひとも、たまにはあるのです。八十歳の婆とか、五歳の娘とか、それは問題になりませんが、女盛りの年頃で、しかもなかなかの美人でありながら、ちっとも私に窮屈な思いをさせず、私もからりとした非常に楽な気持で対坐している事が出来る、そんな女のひとも、たまにはあるのです。あれはいったい、どういうものでしょう。私は、このごろはまた何が何やら、わからなくなってしまいましたが、以前はまあ、こんな具合いに考えていたのです。私に窮屈な思いをさせないというのは、つまり、私にみじんも色気を感じさせないという事なのだから、きっとその女のひとの精神が気高いのだろう、話をしてこだわりを感じさせる女には、まさか、好くの好かれるのというはっきりした気持などはないでしょうが、自身でも気のつかない、あてもないぼんやりしたお色気があって、それが話相手にからまって、へんに相手を窮屈にさせてしまうのではないだろうか、とまあ、そんなふうに考えていたのでした。要するに私は、話をして落ちつかない気持を起させる女は、みだら、とは言えないまでも、多少のお色気のある女として感服せず、そうして、平気で話合える女を、心の正しい人として尊敬していました。
 ところで、その圭吾の嫁は、ほかのひとにはどうかわかりませんが、私には、これまで一度も、全く少しのこだわりも感じさせない女だったのです。いまはもう、地主も小作人もあったものではありませんが、もともとこの嫁は、私の家の代々の小作人の娘で、小さい頃からちょっとこう思案深そ
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