折の流鏑馬に峰王といふ綺麗な童子も参加いたして、きりりと引きしぼつて、ひやうと射た矢が的をはづれて恥づかしのあまりただちにその場から逐電なし、たちまちもつて出家したとの事、これには御台所さまをはじめお傍の人たち一様に笑ひ崩れてしまひました。
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都ハ、アカルクテヨイ。
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と将軍家も微笑んでおつしやいました。この清綱さまは、もともと御台所さまのお附きのお侍で、御台所さまはご存じのとほり前権大納言坊門信清さまの御女子、十三歳の御時に鎌倉へ御輿入に相成り、その時には将軍家も同じ十三歳、さぞかしお可愛らしい御夫婦でございましたでせう。前権大納言さまは、仙洞御所の御母后の御実弟で、京都に於いても指折りの御名門、ひとの話に依りますと、はじめ北条家の近親、足利義兼氏のお娘を御台所にと執権方からの推薦がございましたのださうで、けれども当時十三歳とは言へ、勘のするどいお方でございますから、
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将軍家ノ御台所ハ京都ニヰマス
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ときつぱり御申渡しになつたのださうで、それで周囲のお方たちも余儀なく京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても斡旋の労をとつて下されたお方などもあり、やつと坊門清信さまの御女子ときまつたといふやうな経緯もあつた御様子で、この事に就いても、世上往々、将軍家はおませの浮いたお心から足利の田舎の骨太のお娘よりも都育ちの嬋娟たる手弱女を欲しかつたのだらう等と、けがらはしい、恥知らずの取沙汰をしてゐるのを耳に致した事もございますが、とんでもない事で、将軍家はただ、例のおほどかなお心から都のあかるさを、あづまへも取入れたいと、それだけのお気持から御台所は京都の人を、とお言ひ渡しなされたのではなからうかと私には思はれるのですが、しひてまた考へまするならば、これも将軍家の無邪気の霊感でございまして、無邪気の霊感といふものは、その時には、たわいなく見えながらも、あとあと、月日の経つにつれて、不思議に諸事にぴつたり的中いたしまして、万人の群議にはるかにまさる素直な適切の御処置であつたといふ事がわかつてまゐりますやうな工合ひのもので、もしも、その時に御台所さまを遠い京都より求めず、あづまの御家人のお娘の中から御選定なされたならば、この関東にまた一つ北条氏に比肩し得べき御やくかいの御外戚を作るやうな結果になり、同じ土地の御外戚のわづらはしさは、将軍家もお小さい頃から、例の北条氏と比企氏との対立などにつけても、よくご存じの筈で、そのやうな無益の騒擾を御見透しなさつた上の御処置かも知れぬ、とこれさへもまあ、下衆の言ふ、贔屓の引きたふしのやうなものでございまして、無理に意味をつけるとしても、本当に、それくらゐのところのものを或る人はまた仔細らしく、この時すでに将軍家に於いては朝幕合体、さらにすすんで大政奉還の深謀さへあつて御台所を院の御外戚より求められたのだといふひどく大袈裟な当推量をなさるお方もあつたやうでございました。それもまた思ひ過しの野暮な言ひ草で、私の親しく拝しました将軍家は、決してそんな深い秘密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同様に、その場の気配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ霊感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本当に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、
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平家ハ、アカルイ。
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ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑《かぶと》を取つて逆様に著給へば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆様には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気にいりの御様子で、「新中納言知盛卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、
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