をののいて居られる御様子に拝されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御気配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寝なさらず、はるかに西の、京の方の空を拝し、しきりに御落涙なさつて居られました。
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百ノ霹靂一時ニ落ツトモ、カクバカリ心ニ強ク響クマイ。
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と蒼ざめたお顔で、誰に言ふともなく低く呻かれるやうにおつしやつて、その夜、三首のお歌を謹しみ慎しみお作りになられました。
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太上天皇御書下預時歌
オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ
ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ
山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ
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御説明もおそれおほい事でございますが、ハコヤノ山とは藐姑射之山、仙洞と同義で、すなはち仙洞御所をそのやうに称し奉る御ならはしのやうでございます。このお歌に就いても、いつたいその時の御書の御内容はどういふものであつたのか、さうして将軍家はそれに依つて如何なる決意をなさつたのか、などと要らぬ不敬の探索をなさるお方もございますやうですが、別にそのやうな御苦労の御詮議をなさるまでもなく、何もかもそつくり明白にそのお歌に出てゐるではございませぬか。かたじけなくも御親書を賜り百雷一時に落ちる以上の強い衝動を覚えられ、その素直なる御返答として、大君への純乎たる絶対の恭順のお心をお歌におよみになつたのでございますから、御書の御内容もおのづから推量できる筈でございます。すなはち将軍家に対して、さらに朝廷への忠勤をはげむやう、との極めて御当然の御勅諚であられたといふより他には何も考へられないではございませぬか。前にもくどいくらゐ申し上げましたが、将軍家のお歌はいつも、あからさまなほど素直で、俗にいふ奥歯に物のはさまつたやうな濁つた言ひあらはし方などをなさる事は一度もなかつたのでございます。この時お二方の間に、何か御密約が成立したのではなからうか、などとひどく凝つた推察をなさるお人さへあつたやうでございますけれど、それなら、将軍家の方からも機を見てひそかに御返書を奉るべきでございまして、何もことさらに堂々とお歌を作り、御身辺の者にも見せてま
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