つとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。将軍家のこのやうな深い御愛情には、御台所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御台所さまをお誘ひになり、殊にも和歌会や絵合せの折には、御台所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、将軍家に京風の粋をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも変らず御円満でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出来にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出来ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無礼の当推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出来るのですが、故右大臣さまは、お酒を飲み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奥の女房たちに対して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。恋のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで絵そらごと、長明入道さまの言ひ方に従へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、将軍家は恋といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御断言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拝読しただけで将軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見抜いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事実は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御清潔になさつて居られましたので、御ところの人たちに対しても、お酒をのんで乱酔に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさい
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