、晴、鶴岳放生会、将軍家御参宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる。十六日、甲寅、晴、将軍家御出昨の如し、流鏑馬殊に之を結構せらる。
同年。九月小。十三日、辛巳、天晴陰、酉刻快霽、明月の夜、御所にて和歌の御会なり。
同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者参ず、去る十三日、禅定三品政子従二位に叙せしめ給ふと云々。
同年。十二月小。五日、癸卯、霽、鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠して、更に退出せられず、数ヶの祈請を致され、都て以て除髪の儀無し、人之を恠しむ、又白河左衛門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが為、進発せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々。廿日、戊午、晴、去る二日、将軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。廿一日、己未、晴、将軍家大臣拝賀の為に、明年正月鶴岳宮に御参有る可きに依つて、御装束御車已下の調度等、又仙洞より之を下され、今日到著す、又扈従の上達部坊門亜相已下参向せらる可しと云々。
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公暁禅師さまは、その翌年の建保五年六月に京都よりお帰りになり、尼御台さまのお計ひに依つて鶴岳宮の別当に任ぜられました。前の別当職、定暁僧都さまはそのとしの五月に御腫物をわづらひ、既におなくなりになつてゐたのでございます。公暁禅師さまは、それまで数年、京都に於いて御学問をなさつて居られたのでございますが、あまり永く京都などに置くと、また謀叛の輩に擁立せられたりなどして栄実禅師さまの二の舞ひの、不幸な最期をとげられるやうな事が起らないとも限らぬといふ尼御台さまの御孫いとしのお心から、お使をつかはして、公暁禅師さまをむりやり鎌倉へ連れ帰らしめ、鶴岳宮の別当職に補せられたのが、あの、関東はおろか、京、西国、日本中を震撼させた凶事のもとになつたのでございます。その六月の末に、公暁禅師さまは御ところへも御挨拶にお見えになりましたが、もはやその時は十八歳、筋骨たくましい御立派な若者になつて居られました。身の丈も将軍家よりは、はるかにお高く、花やかなお顔立ちで色も白く、まことに源家嫡流の御若君に恥ぢぬ御容儀と拝されましたが、けれども、御幼少の頃からのあの卑しく含羞むやうな、めめしい笑顔はもとのままで、どこやら御軽薄でたより無く、赤すぎるお口元にも、またお眼の光にも、不潔なみだらなものさへ感ぜられ、将軍家の純一なおつとりした御態度に較べると、や
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