端から精出して御覧になつて、また、いままで御決裁をお怠りになつてゐたために、諸方の訴訟がずいぶんたまつてしまつてゐるといふ事をお聞きになつて、それも必ず年内に片づけるやうにしたいと仰せになつてお役人を督励してどしどしお片づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬといふ御意気込みのやうで、このやうに将軍家を異様にせきたてるものは、いつたい、なんであらうと私は将軍家のその頃の日夜、そはそはと落ちつかず御いそがしさうになさつて居られるのを拝して、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございませんし、何でもちやんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされてゐるだけの事に違ひないので、行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月の末、和田左衛門尉義盛以下将卒の亡霊が、将軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立つたといふ、その翌朝、にはかに、さかんな仏事を行ひましたけれど、心ならずもその寵臣の一族を皆殺しにしてしまつた主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでせうか、これ必ず一つの原因と私には思はれてならなかつたのでございます。
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建保五年丁丑。三月小。十日、丁亥、晴、晩頭将軍家桜花を覧んが為、永福寺に御出、御台所御同車、先づ御礼仏、次に花林の下を逍遥し給ふ、其後大夫判官行村の宅に入御、和歌の御会有り、亥の四点に及び、月に乗じて還御。
同年。四月大。十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日数百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に随ひ、諸人筋力を尽して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の為体は、唐船出入す可きの海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。
同年。五月大。十一日、戊子、晴、申剋、鶴岳八幡宮の別当三位僧都定暁、腫物を煩ひて入滅す。廿七日、甲辰、去る元年五月亡卒せる義盛以下の所領、神社仏寺の事、本主の例に任せて興行せしむ可きの由、今日彼の跡拝領の輩に仰せらると云々。
同年。六月小。廿日、丙※[#「刀
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