答へた。
「汚いことをしたからです。私だつて知つてゐます。だからかうして珠數やお經の本で隱さうとしてゐるのです。私は色の配合のために珠數とお經の本とを持つて歩いてゐるのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつつて、私のすがたもまさつて見えます。」さう言ひながら、お經の本のペエジをぱらぱらめくつた。「讀みませうか。」
「ええ。」僕は眼をつぶつた。
「おふみさまです。夫《ソレ》人間《ニンゲン》ノ浮生《フジヤウ》ナル相《サウ》ヲツラツラ觀《クワン》ズルニ、オホヨソハカナキモノハ、コノ世《ヨ》ノ始《シ》中《チユウ》終《ジユウ》マボロシノゴトクナル一期《イチゴ》ナリ、――てれくさくて讀まれるものか。べつなのを讀みませう。夫《ソレ》女人《ニヨニン》ノ身《ミ》ハ、五障《ゴシヤウ》三從《サムシヨウ》トテ、オトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリ、コノユヘニ一切《イチサイ》ノ女人《ニヨニン》ヲバ、――馬鹿らしい。」
「いい聲だ。」僕は眼をつぶつたままで言つた。「もつとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈でたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さず、なんにも聞かないで、かうして眼をつぶつてらくらくと話し合へるといふことが、僕もそんな男になれたといふことが、うれしいのです。あなたは、どうですか。」
「いいえ。だつて、仕方がありませんもの。お伽噺がおすきですか。」
「すきです。」
 尼は語りはじめた。
「蟹の話をいたしませう、月夜の蟹の痩せてゐるのは、砂濱にうつるおのが醜い月影におびえ、終夜ねむらず、よろばひ歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り、龍宮の夢でも見てゐる態度こそゆかしいのでせうけれども、蟹は月にうかされ、ただ濱邊へとあせるのです。砂濱へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹は泡をふきつつさう呟き呟きよろばひ歩くのです。蟹の甲羅はつぶれ易い。いいえ、形からして、つぶされるやうにできてゐます。蟹の甲羅のつぶれるときは、くらつしゆといふ音が聞えるさうです。むかし、いぎりすの或る大きい蟹は、生まれながらに甲羅が赤くて美しかつた。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでせうか。またはかの大蟹のみづから招いたむくいなのでせうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフヱへはひつたのでした。カフヱには、たくさんの小蟹がむれつどひ、煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ眼をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしさうにさけつつ、こつそり囁いたといふのです。『おまへ、くらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまづしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂濱へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべつたい醜い影は、ほんたうにおれの影であらうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給へ。もうはや、おしつぶされかけてゐる。おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。こんなに弱弱しかつたのだらうか。小さい小さい蟹は、さう呟きつつよろばひ歩くのでした。おれには、才能があつたのであらうか。いや、いや、あつたとしても、それはをかしい才能だ。世わたりの才能といふものだ。お前は原稿を賣り込むのに、編輯者へどんな色目をつかつたか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着やうよ。作品に一言も注釋を加へるな。退屈さうにかう言ひ給へ。『もし、よかつたら。』甲羅がうづく。からだの水氣が乾いたやうだ。この海水のにほひだけが、おれのたつたひとつのとりえだつたのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはひらうか。海の底の底の底へもぐらうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。浦の苫屋のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何處《いづく》の蟹。百傳《ももづた》ふ。角鹿《つぬが》の蟹。横去《よこさら》ふ。何處《いづく》に到る。……」口を噤んだ。
「どうしたのです。」僕はつぶつてゐた眼をひらいた。
「いいえ。」尼はしづかに答へた。「もつたいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでせうかしら。」
「部屋を出て、廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それが扉です。」
「秋にもなりますと女人は冷えますので。」さう言つてから、いたづら兒のやうに頸をすくめ兩方の眼をくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して見せた。僕は微笑んだ。
 尼は僕の部屋から出ていつた。僕はふとんを頭からひきかぶつて考へた。高邁なことがらについて思案したのではなかつた。これあ、まうけものをしたな、と惡黨らしくほくそ笑んだだけのことであつた。
 尼は少しあわてふためいた樣子でかへつて來て襖をぴたつとしめてから、立つたままで言つた。
「私は寢なければなりません。もう十二時なのです。かまひませんでせうか。」
 僕は答へた。
「かまひません。」
 どんなにびんばふをしても蒲團だけは美しいのを持つてゐたいと僕は少年のころから心がけてゐたのであるから、こんな工合ひに不意の泊り客があつたときにでも、まごつくことはなかつたのだ。僕は起きあがり、僕の敷いてゐる三枚の敷蒲團のうちから一枚ひき拔いて、僕の蒲團とならべて敷いた。
「この蒲團は不思議な模樣ですね。ガラス繪みたいだわ。」
 僕は自分の二枚の掛蒲團を一枚だけはいだ。
「いいえ。掛蒲團は要らないのです。私はこのままで寢るのです。」
「さうですか。」僕はすぐ僕の蒲團の中へもぐりこんだ。
 尼は珠數とお經の本とを蒲團のしたへそつとおしこんでから、ころものままで敷布のない蒲團のうへに横たはつた。
「私の顏をよく見てゐて下さい。みるみる眠つてしまひます。それからすぐきりきりと齒ぎしりをします。すると如來樣がおいでになりますの。」
「如來樣ですか。」
「ええ。佛樣が夜遊びにおいでになります。毎晩ですの。あなたは退屈をしていらつしやるのださうですから、よくごらんになればいいわ。なにをお斷りしたのもそのためなのです。」
 なるほど、話をはるとすぐ、おだやかな寢息が聞えた。きりきりとするどい音が聞えたとき、部屋の襖がことことと鳴つたのである。僕は蒲團から上半身をはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、如來が立つてゐた。
 二尺くらゐの高さの白象にまたがつてゐたのである。白象には黒く錆びた金の鞍が置かれてゐた。如來はいくぶん、いや、おほいに痩せこけてゐた。肋骨が一本一本浮き出てゐて、鎧扉のやうであつた。ぼろぼろの褐色の布を腰のまはりにつけてゐるだけで素裸であつた。かまきりのやうに痩せ細つた手足には蜘蛛の巣や煤がいつぱいついてゐた。皮膚はただまつくろであつて、短い頭髮は赤くちぢれてゐた。顏はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしやくしやと皺になつてゐた。
「如來樣ですか。」
「さうです。」如來の聲はひくいかすれ聲であつた。「のつぴきならなくなつて、出て來ました。」
「なんだか臭いな。」僕は鼻をくんくんさせた。臭かつたのである。如來が出現すると同時に、なんとも知れぬ惡臭が僕の部屋いつぱいに立ちこもつたのである。
「やはりさうですか。この象が死んでゐるのです。樟腦をいれてしまつてゐたのですが、やはり匂ふやうですね。」それから一段と聲をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはひりませんのでしてね。」
「ふつうの象でもかまはないのに。」
「いや、如來のていさいから言つても、さうはいかないのです。ほんたうに、私はこんな姿をしてまで出しやばりたくはないのです。いやな奴等がひつぱり出すのです。佛教がさかんになつたさうですね。」
「ああ、如來樣。早くどうにかして下さい。僕はさつきから臭くて息がつまりさうで死ぬ思ひでゐたのです。」
「お氣の毒でした。」それからちよつと口ごもつた。「あなた。私がここへ現はれたとき滑稽ではなかつたかしら。如來の現はれかたにしては、少しぶざまだと思はなかつたでせうか。思つたとほりを言つて下さい。」
「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思ひましたよ。」
「ほほ。さうですか。」如來は幾分からだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさつきからそれだけが氣がかりでならなかつたのです。私は氣取り屋なのかも知れませんね。これで安心して歸れます。ひとつあなたに、いかにも如來らしい退去のすがたをおめにかけませう。」言ひをはつたとき如來はくしやんとくしやみを發し、「しまつた!」と呟いたかと思ふと如來も白象も紙が水に落ちたときのやうにすつと透明になり、元素が音もなくみぢんに分裂し雲と散り霧と消えた。
 僕はふたたび蒲團へもぐつて尼を眺めた。尼は眠つたままでにこにこ笑つてゐた。恍惚の笑ひのやうでもあるし、侮蔑の笑ひのやうでもあるし、無心の笑ひのやうでもあるし、役者の笑ひのやうでもあるし、諂ひの笑ひのやうでもあるし、喜悦の笑ひのやうでもあるし、泣き笑ひのやうでもあつた。尼はにこにこ笑ひつづけた。笑つて笑つて笑つてゐるうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の流れるやうな音とともに二寸ほどの人形になつた。僕は片腕をのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。淺黒い頬は笑つたままで凝結し、雨滴ほどの唇は尚うす赤く、けし粒ほどの白い齒はきつちり並んで生えそろつてゐた。粉雪ほどの小さい兩手はかすかに黒く、松の葉ほど細い兩脚は米粒ほどの白足袋を附けてゐた。僕は墨染めのころものすそをかるく吹いたりなどしてみたのである。



底本:「太宰治全集2」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
入力:赤木孝之
校正:湯地光弘
1999年7月12日公開
2008年3月22日修正
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