らないやうに警戒した。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別な問題について考へふけるのであつた。人生や藝術の問題はいくぶん危險であつた。殊に文學は、てきめんにあのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねつた。からたちは、灌木である。春のをはりに白色の花をひらく。何科に屬するかは知らぬ。秋、いますこし經つと黄いろい小粒の實がなるのだ。それ以上を考へつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を轉ずる。すすき。これは禾本科に屬する。たしか禾本科と教はつた。この白い穗は、をばな、といふのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききやう、かるかや、なでしこ、それから、をばな。もう二つ足りないけれど、なんであらう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るやうにして、足を早めた。いくたびとなく躓いた。この落葉は。いや、植物はよさう。もつと冷いものを。もつと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。
おれは、AプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乘の公式について、研究した。
君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。けれども、おれは知つてゐる。おそらくは君も、おれのやうな災難を受けたときには、いや、もつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして、數學はおろか、かぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。
おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。
友人の部屋の扉をノツクしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでゐる四つの金魚について、その鰭の數をしらべた。友人は、まだ寢てゐたのであつた。片眼だけをしぶくあけて、出て來た。友人の部屋へはひつて、おれはやうやくほつとした。
いちばん恐ろしいのは孤獨である。なにか、おしやべりをしてゐると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はかういふ條件にかなつてゐる。
おれは友人の近作について饒舌をふるつた。それは二十號の風景畫であつた。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。友人は、それを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。もし、君の藝術批評が立派なものであるとしたなら、おれはそのときの批評も、まんざらではなかつたやうである。なぜと言つて、おれもまた君のやうに、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構圖について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。
友人はいちいちおれの言ふことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほど、おしやべりをつづけたのである。
しかし、かういふ饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切つて、この年少の友に將棋をいどんだ。ふたりは寢床のうへに坐つて、くねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ、早い將棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであつた。たとへ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。
こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。やうやく疲勞を覺へたのだ。よさう、と言つて、おれは將棋の道具をとりのけ、その寢床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うつかり者。休止は、おれにとつては大敵なのだつた。かなしい影がもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなく呟いては、その大きい影を追ひはらつてゐた。とてもこのままではならぬ。おれは動いてゐなければいけないのだ。
君は、これを笑ふであらうか。おれは寢床へ腹這ひになつて、枕元に散らばつてあつた鼻紙をいちまい拾ひ、折紙細工をはじめたのである。
まづこの紙を對角線に沿うて二つに折つて、それをまた二つに疊んで、かうやつて袋を作つて、それから、こちらの端を折つて、これは翼、こちらの端を折つて、これはくちばし、かういふ工合ひにひつぱつて、ここのちひさい孔からぷつと息を吹きこむのである。これは、鶴。」
水車
橋へさしかかつた。男はここで引きかへさうと思つた。女はしづかに橋を渡つた。男も渡つた。
女のあとを追つてここまで歩いて來なければいけなかつたわけを、男はあれこれと考へてみた。みれんではなかつた。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからつぽになつてしまつた筈である。女がだまつて歸り仕度をはじめたとき、男は煙草に火を點じた。おのれの手のふるへてもゐないのに氣が附いて、男はいつそう白白しい心地がした。そのままほつて置いてもよかつたのである。男は女と一緒に家を出た。
二人は土堤の細い道を、あとになりさきになりしながらゆつくり歩いた。初夏の夕暮れことである。はこべの花が道の兩側にてんてんと白く咲いてゐた。
憎くてたまらぬ異性にでなければ關心を持てない一群の不仕合せな人たちがゐる。男もさうであつた。女もさうであつた。女はけふも郊外の男の家を訪れて、男の言葉の一つ一つに譯のわからぬ嘲笑を浴びせたのである。男は、女の執拗な侮蔑に對して、いまこそ腕力を用ゐようと決心した。女もそれを察して身構へた。かういふせつぱつまつたわななきが、二人のゆがめられた愛慾をあふりたてた。男の力はちがつた形式で行はれた。めいめいのからだを取り返へしたとき、二人はみぢんも愛し合つてゐない事實をはつきり知らされた。
かうやつて二人ならんで歩いてゐるが、お互ひに妥協の許さぬ反撥を感じてゐた。以前にました憎惡を。
土堤のしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れてゐた。男は薄闇のなかで鈍く光つてゐる水のおもてを見つめながら、また、引きかへさうかしら、と考へた。女は、うつむいたまま道を眞直に歩いてゐた。男は女のあとを追つた。
みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やつと言ひわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかり離れて歩きながら、ステツキを振つてみちみちの夏草を薙ぎ倒してゐた。かんにんして下さい、とひくく女に囁けば、何か月なみの解決がつきさうにも思はれる。男はそれも心得てゐた。が、言へなかつた。だいいち時機がおくれてゐる。これは、その直後にこそ效果のある言葉らしい。ふたりが改めて對陣し直したいまになつて、これを言ひだすのは、いかにも愚かしくないか。男は青蘆をいつぽん薙ぎ倒した。
列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふつと振りむいた。男もいそいで顏をうしろにねぢむけた。列車は川下の鐵橋を渡つてゐた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の眼の前をとほつていつた。男は、おのれの背中にそそがれてゐる女の視線をいたいほど感じてゐた。列車は、もう通り過ぎてしまつて、前方の森の蔭からその車輛のひびきが聞えるだけであつた。男は、ひと思ひに、正面にむき直つた。もし女と視線がかち合つたなら、そのときには鼻で笑つてかう言つてやらう。日本の汽車もわるくないね。
女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いてゐたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の眼にしみた。このままうちへ歸るつもりかしら。いつそ、けつこんしようか。いや、ほんたうはけつこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。
男はステツキをぴつたり小脇にかかへて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女は痩せた肩をすこしいからせて、ちやんとした足どりで歩いてゐた。男は、女の二三歩うしろまではしつて來て、それからのろのろと歩いた。憎惡だけが感ぜられるのだ。女のからだぢゆうから、我慢できぬいやな臭ひが流れ出てくるやうに思はれた。
二人はだまつて歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊が、ぽつかり浮んだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。
逃げよう。解決もなにも要らぬ。おれが女の心に油ぎつた惡黨として、つまりふつうの男として殘つたとて、構はぬ。どうせ男はかういふものだ。逃げよう。
川楊のひとむれを通り越すと、二人は顏を合せずに、またより添つて歩いた。たつたひとこと言つてやらうか。おれは口外しないよ、と。男は片手で袂の煙草をさぐつた。それとも、かう言つてやらうか。令孃の生涯にいちど、奧樣の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけつこんをなさい。すると、この女はなんと答へるのであらう。ストリンドベリイ? と反問してくるにちがひない。男はマツチをすつた。女の蒼黒い片頬がゆがんだまま男のつい鼻の先に浮んだ。
たうとう男はたちどまつた。女も立ちどまつた。お互ひに顏をそむけたまま、しばらく立ちつくしてゐたのである。男は女が泣いてもゐないらしいのをいまいましく思ひながら、わざと氣輕さうにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。ぢき左側に男の好んで散歩に來る水車小屋があつた。水車は闇の中でゆつくりゆつくりまはつてゐた。女は、くるつと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草をくゆらしながら踏みとどまつた。呼びとめようとしないのだ。
尼
九月二十九日の夜更けのことであつた。あと一日がまんをして十月になつてから質屋へ行けば、利子がひと月分まうかると思つたので、僕は煙草ものまずにその日いちにち寢てばかりゐた。晝のうちにたくさん眠つた罰で、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋の襖がことことと鳴つた。風だらうと思つてゐたのだが、しばらくして、またことことと鳴つた。おや、誰か居るのかなとも思はれ、蒲團から上半身をくねくねはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立つてゐた。
中肉のやや小柄な尼であつた。頭は青青してゐて、顏全體は卵のかたちに似てゐた。頬は淺黒く、粉つぽい感じであつた。眉は地藏さまの三日月眉で、眼は鈴をはつたやうにぱつちりしてゐて、睫がたいへん長かつた。鼻はこんもりともりあがつて小さく、兩唇はうす赤くて少し大きく、紙いちまいの厚さくらゐあいてゐてそのすきまから眞白い齒列が見えてゐた。こころもち受け口であつた。墨染めのころもは糊つけしてあるらしく折目折目がきつちりとたつてゐて、いくらか短かめであつた。脚が三寸くらゐ見えてゐて、そのゴム毬みたいにふつくりふくらんだ桃いろの脚にはうぶ毛が薄く生えそろひ、足頸が小さすぎる白足袋のためにきつくしめつけられて、くびれてゐた。右手には青玉の珠數を持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持つてゐた。
僕は、ああ妹だなと思つたので、おはひりと言つた。尼は僕の部屋へはひり、靜かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まで歩いて來て、それから、ちやんと坐つた。僕は蒲團の中へもぐりこみ、仰向けに寢たままで尼の顏をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲つた。息がとまつて、眼さきがまつくろになつた。
「よく似てゐるが、あなたは妹ぢやないのですね。」はじめから僕には妹などなかつたのだな、とそのときはじめて氣がついた。「あなたは、誰ですか。」
尼は答へた。
「私はうちを間違へたやうです。仕方がありません。同じやうなものですものね。」
恐怖がすこしづつ去つていつた。僕は尼の手を見てゐた。爪が二分ほども伸びて、指の節は黒くしなびてゐた。
「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。かうして寢ながら見てゐると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに。」
尼は
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