、それはをかしい才能だ。世わたりの才能といふものだ。お前は原稿を賣り込むのに、編輯者へどんな色目をつかつたか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着やうよ。作品に一言も注釋を加へるな。退屈さうにかう言ひ給へ。『もし、よかつたら。』甲羅がうづく。からだの水氣が乾いたやうだ。この海水のにほひだけが、おれのたつたひとつのとりえだつたのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはひらうか。海の底の底の底へもぐらうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。浦の苫屋のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何處《いづく》の蟹。百傳《ももづた》ふ。角鹿《つぬが》の蟹。横去《よこさら》ふ。何處《いづく》に到る。……」口を噤んだ。
「どうしたのです。」僕はつぶつてゐた眼をひらいた。
「いいえ。」尼はしづかに答へた。「もつたいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでせうかしら。」
「部屋を出て、廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたりま
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