なのでせうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフヱへはひつたのでした。カフヱには、たくさんの小蟹がむれつどひ、煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ眼をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしさうにさけつつ、こつそり囁いたといふのです。『おまへ、くらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまづしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂濱へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべつたい醜い影は、ほんたうにおれの影であらうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給へ。もうはや、おしつぶされかけてゐる。おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。こんなに弱弱しかつたのだらうか。小さい小さい蟹は、さう呟きつつよろばひ歩くのでした。おれには、才能があつたのであらうか。いや、いや、あつたとしても
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