夜をつひやした。おれの疑惑は、ひとつのくやしい事實にかたまつて行くのであつた。おれもやはり、十三人目の椅子に坐るべきおせつかいな性格を持つてゐた。
おれは妻をせめたのである。このことにもまた三夜をつひやした。妻は、かへつておれを笑つてゐた。ときどきは怒りさへした。おれは最後の奸策をもちゐた。その短篇には、おれのやうな男に處女がさづかつた歡喜をさへ書きしるされてゐるのであつたが、おれはその箇所をとりあげて、妻をいぢめたのである。おれはいまに大作家になるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。するとお前は、この小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたはれるであらう、と妻をおどかした。無學の妻は、果しておびえた。しばらく考へてから、たうとうおれに囁いた。たつたいちど、と囁いたのである。おれは笑つて妻を愛撫した。わかいころの怪我であるゆゑ、それはなんでもないことだ、と妻に元氣をつけてやつて、おれはもつとくはしく妻に語らせるのであつた。ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正した。それから、三度、と言つた。おれは尚も笑ひつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない名前であつた。妻がその男のことを語つてゐるうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛慾である。同時に眞實の愛情である。妻は、つひに、六度ほど、と吐きだして聲を立てて泣いた。
その翌る朝、妻はほがらかな顏つきをしてゐた。あさの食卓に向ひ合つて坐つたとき、妻はたはむれに、兩手あはせておれを拜んだ。おれも陽氣に下唇を噛んで見せた。すると妻はいつそうくつろいだ樣子をして、くるしい? とおれの顏を覗いたでないか。おれは、すこし、と答へた。
おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きつと卑俗で生野暮なものだといふことを。
その日を、おれはどうして過したか、これも君に教へて置かう。
こんなときには、妻の顏を、妻の脱ぎ捨ての足袋を、妻にかかはり合ひのある一切を見てはいけない。妻のそのわるい過去を思ひ出すからといふだけでない。おれと妻との最近までの安樂だつた日を追想してしまふからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。この友人は獨身であつた。妻帶者の友人はこの場合ふむきであらう。
おれはみちみち、おれの頭腦がからつぽにならないやうに警戒した。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別な問題について考へふけるのであつた。人生や藝術の問題はいくぶん危險であつた。殊に文學は、てきめんにあのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねつた。からたちは、灌木である。春のをはりに白色の花をひらく。何科に屬するかは知らぬ。秋、いますこし經つと黄いろい小粒の實がなるのだ。それ以上を考へつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を轉ずる。すすき。これは禾本科に屬する。たしか禾本科と教はつた。この白い穗は、をばな、といふのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききやう、かるかや、なでしこ、それから、をばな。もう二つ足りないけれど、なんであらう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るやうにして、足を早めた。いくたびとなく躓いた。この落葉は。いや、植物はよさう。もつと冷いものを。もつと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。
おれは、AプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乘の公式について、研究した。
君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。けれども、おれは知つてゐる。おそらくは君も、おれのやうな災難を受けたときには、いや、もつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして、數學はおろか、かぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。
おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。
友人の部屋の扉をノツクしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでゐる四つの金魚について、その鰭の數をしらべた。友人は、まだ寢てゐたのであつた。片眼だけをしぶくあけて、出て來た。友人の部屋へはひつて、おれはやうやくほつとした。
いちばん恐ろしいのは孤獨である。なにか、おしやべりをしてゐると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はかういふ條件にかなつてゐる。
おれは友人の近作について饒舌をふるつた。それは二十號の風景畫であつた。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。友人は、それを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置
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