いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。もし、君の藝術批評が立派なものであるとしたなら、おれはそのときの批評も、まんざらではなかつたやうである。なぜと言つて、おれもまた君のやうに、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構圖について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。
 友人はいちいちおれの言ふことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほど、おしやべりをつづけたのである。
 しかし、かういふ饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切つて、この年少の友に將棋をいどんだ。ふたりは寢床のうへに坐つて、くねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ、早い將棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであつた。たとへ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。
 こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。やうやく疲勞を覺へたのだ。よさう、と言つて、おれは將棋の道具をとりのけ、その寢床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うつかり者。休止は、おれにとつては大敵なのだつた。かなしい影がもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなく呟いては、その大きい影を追ひはらつてゐた。とてもこのままではならぬ。おれは動いてゐなければいけないのだ。
 君は、これを笑ふであらうか。おれは寢床へ腹這ひになつて、枕元に散らばつてあつた鼻紙をいちまい拾ひ、折紙細工をはじめたのである。
 まづこの紙を對角線に沿うて二つに折つて、それをまた二つに疊んで、かうやつて袋を作つて、それから、こちらの端を折つて、これは翼、こちらの端を折つて、これはくちばし、かういふ工合ひにひつぱつて、ここのちひさい孔からぷつと息を吹きこむのである。これは、鶴。」

       水車

 橋へさしかかつた。男はここで引きかへさうと思つた。女はしづかに橋を渡つた。男も渡つた。
 女のあとを追つてここまで歩いて來なければいけなかつたわけを、男はあれこれと考へてみた。みれんではなかつた。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからつぽになつてしまつた筈である。女がだまつて歸り仕度をはじめたとき、男は煙草に火を點じた。おのれの手のふるへてもゐないのに氣が附いて、男はいつそう白白しい心地がした。そのままほつて置いてもよかつたのである。男は女と一緒に家を出た。
 二人は土堤の細い道を、あとになりさきになりしながらゆつくり歩いた。初夏の夕暮れことである。はこべの花が道の兩側にてんてんと白く咲いてゐた。
 憎くてたまらぬ異性にでなければ關心を持てない一群の不仕合せな人たちがゐる。男もさうであつた。女もさうであつた。女はけふも郊外の男の家を訪れて、男の言葉の一つ一つに譯のわからぬ嘲笑を浴びせたのである。男は、女の執拗な侮蔑に對して、いまこそ腕力を用ゐようと決心した。女もそれを察して身構へた。かういふせつぱつまつたわななきが、二人のゆがめられた愛慾をあふりたてた。男の力はちがつた形式で行はれた。めいめいのからだを取り返へしたとき、二人はみぢんも愛し合つてゐない事實をはつきり知らされた。
 かうやつて二人ならんで歩いてゐるが、お互ひに妥協の許さぬ反撥を感じてゐた。以前にました憎惡を。
 土堤のしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れてゐた。男は薄闇のなかで鈍く光つてゐる水のおもてを見つめながら、また、引きかへさうかしら、と考へた。女は、うつむいたまま道を眞直に歩いてゐた。男は女のあとを追つた。
 みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やつと言ひわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかり離れて歩きながら、ステツキを振つてみちみちの夏草を薙ぎ倒してゐた。かんにんして下さい、とひくく女に囁けば、何か月なみの解決がつきさうにも思はれる。男はそれも心得てゐた。が、言へなかつた。だいいち時機がおくれてゐる。これは、その直後にこそ效果のある言葉らしい。ふたりが改めて對陣し直したいまになつて、これを言ひだすのは、いかにも愚かしくないか。男は青蘆をいつぽん薙ぎ倒した。
 列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふつと振りむいた。男もいそいで顏をうしろにねぢむけた。列車は川下の鐵橋を渡つてゐた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の眼の前をとほつていつた。男は、おのれの
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