がいつぱいついてゐた。皮膚はただまつくろであつて、短い頭髮は赤くちぢれてゐた。顏はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしやくしやと皺になつてゐた。
「如來樣ですか。」
「さうです。」如來の聲はひくいかすれ聲であつた。「のつぴきならなくなつて、出て來ました。」
「なんだか臭いな。」僕は鼻をくんくんさせた。臭かつたのである。如來が出現すると同時に、なんとも知れぬ惡臭が僕の部屋いつぱいに立ちこもつたのである。
「やはりさうですか。この象が死んでゐるのです。樟腦をいれてしまつてゐたのですが、やはり匂ふやうですね。」それから一段と聲をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはひりませんのでしてね。」
「ふつうの象でもかまはないのに。」
「いや、如來のていさいから言つても、さうはいかないのです。ほんたうに、私はこんな姿をしてまで出しやばりたくはないのです。いやな奴等がひつぱり出すのです。佛教がさかんになつたさうですね。」
「ああ、如來樣。早くどうにかして下さい。僕はさつきから臭くて息がつまりさうで死ぬ思ひでゐたのです。」
「お氣の毒でした。」それからちよつと口ごもつた。「あなた。私がここへ現はれたとき滑稽ではなかつたかしら。如來の現はれかたにしては、少しぶざまだと思はなかつたでせうか。思つたとほりを言つて下さい。」
「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思ひましたよ。」
「ほほ。さうですか。」如來は幾分からだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさつきからそれだけが氣がかりでならなかつたのです。私は氣取り屋なのかも知れませんね。これで安心して歸れます。ひとつあなたに、いかにも如來らしい退去のすがたをおめにかけませう。」言ひをはつたとき如來はくしやんとくしやみを發し、「しまつた!」と呟いたかと思ふと如來も白象も紙が水に落ちたときのやうにすつと透明になり、元素が音もなくみぢんに分裂し雲と散り霧と消えた。
 僕はふたたび蒲團へもぐつて尼を眺めた。尼は眠つたままでにこにこ笑つてゐた。恍惚の笑ひのやうでもあるし、侮蔑の笑ひのやうでもあるし、無心の笑ひのやうでもあるし、役者の笑ひのやうでもあるし、諂ひの笑ひのやうでもあるし、喜悦の笑ひのやうでもあるし、泣き笑ひのやうでもあつた。尼はにこにこ笑ひつづけた。笑つて笑つて笑つてゐるうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング