、せめてもの、行為のスローガンになっていたのである。男は、それに依って行為した。男の行為は、その行為の外貌は、けれども多少はなやかであった。われは弱き者の仲間。われは貧しき者の友。やけくその行為は、しばしば殉教者のそれと酷似する。短い期間ではあったが、男は殉教者のそれとかわらぬ辛苦を嘗《な》めた。風にさからい、浪に打たれ、雨を冒した。この艱難《かんなん》だけは、信頼できる。けれども、もともと絶望の行為である。おれは滅亡の民であるという思念一つが動かなかった。早く死にたい願望一つである。おのれひとりの死場所をうろうろ捜し求めて、狂奔していただけの話である。人のためになるどころか、自分自身をさえ持てあました。まんまと失敗したのである。そんなにうまく人柱なぞという光栄の名の下に死ねなかった。謂わば、人生の峻厳《しゅんげん》は、男ひとりの気ままな狂言を許さなかったのである。虫がよいというものだ。所詮《しょせん》、人は花火になれるものではないのである。事実は知らず、転向という文字には、救いも光明も意味されている筈である。そんなら、かれの場合、これは転向という言葉さえ許されない。廃残《はいざん》である。破産であるB光栄の十字架ではなく、灰色の黙殺を受けたのである。ざまのよいものではなかった。幕切れの大見得切っても、いつまでも幕が降りずに、閉口している役者に似ていた。かれは仕様がないので、舞台の上に身を横《よこた》え、死んだふりなどして見せた。せっぱつまった道化である。これが廃人としての唯一のつとめか。かれは、そのような状態に墜ちても、なお、何かの「ため」を捨て切れなかった。私の身のうちに、まだ、どこか食えるところがあるならば、どうか勝手に食って下さい、と寝ころんでいる。食えるところがまだあった。かれは地主のせがれであり、月々のくらしには困っていない。なんらかの素因で等しく世に敗れ、廃人よ、背徳者よとゆび指され、そうしてかれより貧しい人たちは、水の低きにつくが如く、大挙してかれの身のまわりにへばりついた。そうして、この男に、男爵という軽蔑を含めた愛称を与えて、この男の住家をかれらの唯一の慰安所と為した。男爵はぼんやり、これら訪問客たちのために、台所でごはんをたき、わびしげに芋《いも》の皮をむいていた。
かれは、そんな男であった。訪問客のひとりが活動写真の撮影所につとめることになりそれがそのひとの自慢らしく、誰かにその仕事振りを見てもらいたげなのであるが、ほかの訪問客たちは鼻で笑って相手にせぬので、男爵は気の毒に思い、ぜひ私に見せて下さい、と頼んでしまった。男爵は、いったいに無趣味の男であった。弓は初段をとっていたが、これは趣味と言えるかどうか。じゃんけんさえ、はっきりは知らなかった。石よりも鋏《はさみ》が強いと、間違って覚えている。そんな有様であるから、映画のことなどあまり知らなかった。毎日、毎日、訪問客たちの接待に朝から晩までいそがしく、中には泊り込みの客もあって、遊び歩くひまもなかったし、また、たまにお客の来ない日があっても、そんなときには、家の大掃除をはじめたり、酒屋や米屋へ支払いの残りについて弁明してまわったりして、とても活動など見に行くひまはなかった。訪問客たちには、ひた隠しに隠しているが、無理な饗応がたたって、諸方への支払いになかなかつらいところも多い様子であった。無趣味は、時間的|乃至《ないし》は性格的な原因からでなくて、或いはかれの経済状態から拠《よ》って来たものかも知れない。
その日、男爵は二時間ちかく電車にゆられて、撮影所のまちに到着した。草深い田舎であったが、けれどもかれは油断をしなかった。金雀枝《えにしだ》の茂みのかげから美々しく着飾ったコサック騎兵が今にも飛び出して来そうな気さえして、かれも心の中では、年甲斐もなく、小桜|縅《おどし》の鎧《よろい》に身をかためている様なつもりになって、一歩一歩自信ありげに歩いてみるのだが、春の薄日《うすび》を受けて路上に落ちているおのれの貧弱な影法師を見ては、どうにも、苦笑のほかはなかった。駅から一丁ほど田圃道《たんぼみち》を歩いて、撮影所の正門がある。白いコンクリートの門柱に蔦《つた》の新芽が這いのぼり、文化的であった。正門のすぐ向いに茅《かや》屋根の、居酒屋ふうの店があり、それが約束のミルクホールであった。ここで待って居れ、と言われた。かれは、その飲食店の硝子《ガラス》戸をこじあけるのに苦労した。がたぴしして、なかなかあかないのである。あまの岩戸を開《あ》けるような恰好して、うむと力こめたら、硝子戸はがらがらがら大きな音たてて一間以上も滑走し、男爵は力あまって醜く泳いだ。あやうく踏みとどまり、冷汗三斗の思いでこそこそ店内に逃げ込んだ。ひどいほこりであった。六、七脚の椅子も、
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング