花燭
燭をともして昼を継がむ。
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)祝言《しゅうげん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)伊勢|海老《えび》が、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)とみ。[#「とみ。」は右寄せ、4字左]
−−

       一

 祝言《しゅうげん》の夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖《ふすま》のそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台《しまだい》に飾られてある伊勢|海老《えび》が、まだ生きていて、大きな髭《ひげ》をゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。
 私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初夜を得るように、私は衷心《ちゅうしん》から祈っている。
 東京の郊外に男爵と呼ばれる男がいた。としのころ三十二、三と見受けられるが、或《ある》いは、もっと若いのかも知れない。帝大の経済科を中途退学して、そうして、何もしない。月々、田舎から充分の仕送りがあるので、四畳半と六畳と八畳の、ひとり者としては、稍《や》や大きすぎるくらいの家を借りて、毎晩さわいでいる。もっとも、騒ぐのは、男爵自身ではなかった。訪問客が多いのである。実に多い。男爵と同じように、何もしないで、もっぱら考えてばかりいる種属の人たちである。例外なく貧しかった。なんらかの意味で、いずれも、世の中から背徳者の折紙をつけられていた。ほんの通りがかりの者ですけれども、お内があんまり面白そうなので、つい立ち寄らせていただきました、それでは、お邪魔させていただきます、などと言い、一面識もないあかの他人が、のこのこ部屋へはいり込んで来ることさえあった。そんな場合、さあ、さあ、と気軽に座蒲団《ざぶとん》をすすめる男は、男爵でなかった。よく思い切って訪ねて来て呉《く》れましたね、とほめながらお茶を注《つ》いでやる別の男は、これも男爵でなかった。君の眼は、嘘つきの眼ですね、と突然言ってその新来の客を驚愕《きょうがく》させる痩《や》せた男は、これも男爵でなかった。それでは男爵はどこにいるか。その八畳の客間の隅に、消えるように小さく坐って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵である。頗《すこぶ》るぱっとしない。五尺二、三寸の小柄の男で、しかも痩せている。つくづくその顔を眺めてみても、別段これという顔でない。浅黒く油光りして、顎《あご》の鬚《ひげ》がすこし伸びている。丸顔というではなし、さりとて長い顔でもなし、ひどく煮え切らない。髪の毛は、いくぶん長く、けれども蓬髪《ほうはつ》というほどのものではなし、それかと言ってポマアドで手入れしている形跡も見えない。あたりまえの鉄縁の眼鏡を掛けている。甚《はなは》だ、非印象的である。それ故、訪問客たちは、お互い談論にふけり男爵の存在を忘れていることが多いのである。談じて、笑って、疲れて、それからふと隅の男爵に気附いて、おや、君はまだそこにいたのか、などと言い大あくびしながら、
「煙草がなくなっちゃったな。」
「ああ、」と男爵は微笑して立ちあがり、「僕もね、さっきから煙草吸いたくて。」嘘である。男爵は、煙草を吸わないひとであった。「買って来よう。」気軽に出かける。
 男爵というのは、謂《い》わば綽名《あだな》である。北国の地主のせがれに過ぎない。この男は、その学生時代、二、三の目立った事業を為した。恋愛と、酒と、それから或る種の政治運動。牢屋にいれられたこともあった。自殺を三度も企て、そうして三度とも失敗している。多人数の大家族の間に育った子供にありがちな、自分ひとりを余計者と思い込み、もっぱら自分を軽んじて、甲斐ない命の捨てどころを大あわてにあわてて捜しまわっているというような傾向が、この男爵と呼ばれている男の身の上にも、見受けられるのである。なんでもいい、一刻も早く、人柱にしてもらって、この世からおさらばさせていただき、そうして、できれば、そのことに依《よ》って二、三の人のためになりたかった。自分の心の醜さと、肉体の貧しさと、それから、地主の家に生れて労せずして様々の権利を取得していることへの気おくれが、それらに就《つ》いての過度の顧慮が、この男の自我を、散々に殴打し、足蹶《あしげ》にした。それは全く、奇妙に歪曲《わいきょく》した。このあいそのつきた自分の泡のいのちを、お役に立ちますものなら、どうかどうか使って下さい。卑劣と似ていた。けれどもそれが、この男に残された唯一の
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