不思議な囁《ささや》きを無理に拒否しようと努めた。底知れぬほどの敗北感が、このようなほのかな愛のよろこびに於いてさえ、この男を悲惨な不能者にさせていた。ラヴ・インポテンス。飼い馴らされた卑屈。まるで、白痴にちかかった。二十世紀のお化け。鬚の剃《そ》り跡の青い、奇怪の嬰児《えいじ》であった。
 とみにとんと背中を押されて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って坐ったら、ほかの客が、ちらちら男爵を盗み見る。男爵を見るのではなかった。そんな貧弱な青年の恰好を眺めたって、なんのたのしみにもならない。とみを見るのである。ずいぶん有名な女優であった。男爵は、無趣味の男ゆえ、それを知らない。人々のその無遠慮な視線に腹を立て、仏頂づらをしていた。
「それごらん。おまえが、そんな鳥の羽根なんかつけた帽子をかぶっているものだから、みんな笑っているじゃないか。みっともないよ。僕は、女の銘仙《めいせん》の和服姿が一ばん好きだ。」
 とみは笑っていた。
「何がおかしい。おまえは、へんに生意気になったね。さっきも僕がだまって聞いていると、いい気になって、婦人雑誌でたったいま読んで来たようなきざなことを言いやがる。僕は、おまえなんかに慰めてもらおうとは思っていない。女は、もっと女らしくするがいい。不愉快だ。僕は、もうかえる。話なんて、ほかに何もないんだろう?」言っているうちに、わけのわからぬ、ひどい屈辱を感じて来た。失敬なやつだ。僕を遊び仲間にしようとしている。おまえなんかに、たのしまれてたまるものか。すっと立ちあがって、ひとりさっさと資生堂を出た。とみは落ちついて、母のような微笑で、そのうしろ姿を眺めていた。

       二

 男爵は、資生堂を出て、まっすぐに郊外の家へかえった。その郊外の小さい駅に降り立って、男爵は、やっと人ごこちを取り戻した。たすかった。まず、怪我《けが》なくてすんだ、とほっとしていた。自分の勇気ある態度を、ひそかにほめて、少しうっとりして、それから駅のまえの煙草屋から訪問客用のバットを十個買い求めた。こんな男は、自分をあらわに罵《ののし》る人に心服し奉仕し、自分を優しくいたわる人には、えらく威張って蹴散らして、そうしてすましているものである。男爵は、けれども、その夜は、流石《さすが》に自分の故郷のことなど思い出され、床の中で転輾《てんてん》した。
 ――私は、やっぱり、私の育ちを誇っている。なんとか言いながらも、私は、私の家を自慢している。厳粛な家庭である。もし、いま、私の手許に全家族の記念写真でもあったなら、私はこの部屋の床の間に、その写真を飾って置きたいくらいである。人々は、それを見て、きっと、私を羨むだろう。私は、瞬時どんなに得意だろう。私は、その大家族の一人一人に就いて多少の誇張をさえまぜて、その偉さ、美しさ、誠実、恭倹《きょうけん》を、聞き手があくびを殺して浮べた涙を感激のそれと思いちがいしながらも飽くことなくそれからそれと語りつづけるに違いない。けれども、聞き手はついにたまりかねて、
「なるほど君は幸福だ。」と悲鳴に似た讃辞を呈して私の自慢話をさえぎり、それから一つの質問を発する。「けれども、この写真には、君がはいっていないね。どうしたの?」
 それに就いて、私は答える。
「それは、当りまえだ。僕は、二、三の悪いことをしたから、この記念写真にはいる資格がないのだ。それは、当りまえだ。僕には、とても、その資格がないのだ。」
 現在は、私もまだ、こんな工合いで、私の家の人たちも、あれは、わがままで、嘘つきで、だらしがないから、もっともっと苦労させてあげよう。つらくても、みんな、だまって見ていよう。あれは、根がそんなに劣った子ではないのだから、そのうち、きっと眼がさめる。そう信じて、そうしてその日を待っている。私は、それを知っているから、死にたく思う苦しい夜々はあっても、夜のつぎには朝が来る、夜のつぎには朝が来る、と懸命に自分に言い聞かせて、どうにか生き伸び、努力している。三年後には、私も、きっと、その記念写真の一隅に立たせてもらえる。私は、からだが悪いから、ひょっとしたら、その写真にいれてもらうまえに、死ぬかも知れない。そのときには、私の家の人たちは、その記念写真の右上に白い花環で囲んだ私の笑顔を写し込む。
 けれども、それは、三年、いやいや、五年十年あとのことになるかも知れない。私は田舎では、相当に評判がわるい男にちがいないのだから、家ではみんな許したくても、なかなかそうはいかない場合もあろう。とつぜん私が、そのわるい評判を背負ったままで、帰郷しなければならぬことが起ったら、どうしよう。私はともかく、それよりも、家の人たちは、どんなにつらい思いであろう。去年の秋、私の姉が死んだけれど、家からはなんの知
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