蘇生《そせい》の思いであった。むし熱い撮影室から転げるようにして出て、ほっと長大息した。とっぷり日が暮れて、星が鈍く光っている。
「新やん。」うしろから、低くそう呼ばれて、ふりむくと、いままで髭の男のお給仕をしていて二十回以上も、まあ、とあきれていたあの小柄な令嬢の笑顔が暗闇の中に黄色く浮んでいた。「新やん。ちっともお変りにならないのね。あたし、さっき、ひとめ見て、ちゃんとわかったわ。でも、撮影中でしょう、だもんだから、だまって、ごめんなさいね。」ひと息で言ってしまって、それから急に固くなり、「ほんとうに、おひさしぶりでございました。お国では、皆様おかわりございませぬでしょうか。」
 男爵は、やっと思い出した。
「あ、とみ、とみだね。」田舎の訛《なまり》が少し出たほど、それほど男爵は、あわてていた。十年まえ、とみは、田舎の男爵の家で女中をしていた。かれが高等学校にはいったばかりのころで、暑中休暇に帰省してみたら、痩せて小さく、髪がちぢれて、眼のきびしい十六七の小間使いがいて、これが、かれの身のまわりを余りに親切に世話したがるので、男爵は、かえってうるさく、いやらしいことに思い、ことごとに意地悪く虐待《ぎゃくたい》した。愛犬の蚤《のみ》を一匹残さずとるよう命じたことさえあった。二年ほど、かれの家にいたろうか。ふっといなくなって、男爵は、いないな、と思っただけで、それ以上気にとめることはなかった。そのとみである。男爵は、ぶるっと悪感を覚えた。髪が逆立《さかだ》つとまでは言えないが、けれども、なにか、異様にからだがしびれた。たしかに畏怖の感情である。人生の冷酷な悪戯《いたずら》を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろになり、声まで嗄《しわが》れて、
「よく来たねえ。」まるで意味ないことを呟《つぶや》いた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖になっているのかも知れぬ。
 相手の女も、多少、興奮している様子であった。男爵のその白痴めいた寝言を、気にもとめず、
「新やんこそ、よくおいで下さいました。あたし、ゆっくりお話申しあげたいのですけれど、いま、とっても、いそがしいので、あ、そうそう、九時にね、新橋駅のまえでお待ち申して居ります。ほんの、ちょっとでよろしゅうございますから、あの、ほんとに、お願い申しあげます。おいやでしょうけれど、ほんとに。」あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願する有様には、真剣なものがあった。ひとにものをたのまれて、拒否できるような男爵ではなかった。
「ああ、いいよ。いいとも。」
 撮影所から退去して、電車にゆられながら、男爵は、ひどく不愉快であった。もとの女中と、新橋駅で逢うということが、いやらしく下品に感じられてならなかった。破廉恥《はれんち》であると思った。不倫でさえあると考えた。行こうか行くまいか、さんざ迷った。行くことにきめた。約束を平気で破れるほど、そんなに強い男爵ではなかった。
 九時に新橋駅で、小さいとみを捜し出して、男爵は、まるで、口もきかずに、ずんずん歩いた。とみは、ほとんど駈けるようにしてそのあとを追いながら、右から左から、かれの顔を覗き込んでは、際限なくいろいろの質問を発した。おもに、故郷のことに就《つ》いてであった。男爵は、もう八年以上も国へ帰らずに居るので、故郷のことは、さっぱり存じなかった。それゆえ、さあ、とか、あるいは、とか、頗《すこぶ》るいい加減な返答をして堪えていたがおしまいには、それもめんどうくさく、めちゃめちゃになって As you see など、英語が飛び出したりして、もう一刻も早く、おわかれしたくなって来た。そのうちに、とみは、へんなことを言いはじめた。
「あたし、なんでも知っててよ。新やんのこと、あたし、残らず聞いて知っています。新やん、あなたはちっとも悪いことしなかったのよ。立派なものよ。あたし、昔から信じていたわ。新やんは、いいひとよ。ずいぶんお苦しみなさいましたのね。あたし、あちこちの人から聞いて、みんな知っているわ。でも、新やん、勇気を出して、ね。あなたは、負けたのじゃないわ。負けたとしたら、それは、神さまに負けたのよ。だって、新やんは、神さまになろうとしたんだ。いけないわ。あたしだって、苦労したわよ。新やんの気持ちも、よくわかるわ。新やんは、或る瞬間、人間としての一ばん高い苦しみをしたのよ。うんと誇っていいわ。あたし、信じてる。人間だもの、誰だって欠点あるわ。新やん、ずいぶんいいことなさいました。てれちゃだめよ。自信もって、当然のお礼を要求していいのよ。新やん、どうして、立派なものよ。あたし、汚い世界にいるから、そのこと、よくわかるの。」
 男爵は、夢みるようであった。何を女が、と、とみの
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