花吹雪
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)抱懐《ほうかい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)褐色の八字|髭《ひげ》が少しあるのを、

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(例)[#ここで字下げ終わり]
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     一

 花吹雪という言葉と同時に、思い出すのは勿来《なこそ》の関である。花吹雪を浴びて駒を進める八幡太郎義家の姿は、日本武士道の象徴かも知れない。けれども、この度の私の物語の主人公は、桜の花吹雪を浴びて闘うところだけは少し義家に似ているが、頗《すこぶ》る弱い人物である。同一の志趣を抱懐《ほうかい》しながら、人さまざま、日陰の道ばかり歩いて一生涯を費消する宿命もある。全く同じ方向を意図し、甲乙の無い努力を以《もっ》て進みながらも或る者は成功し、或る者は失敗する。けれども、成功者すなわち世の手本と仰がれるように、失敗者もまた、われらの亀鑑《きかん》とするに足ると言ったら叱られるであろうか。人の振り見てわが振り直せ、とかいう諺《ことわざ》さえあるようではないか。この世に無用の長物《ちょうぶつ》は見当らぬ。いわんや、その性善にして、その志向するところ甚だ高遠なるわが黄村先生に於《お》いてをやである。黄村先生とは、もとこれ市井《しせい》の隠にして、時たま大いなる失敗を演じ、そもそも黄村とは大損の意かと疑わしむるほどの人物であるけれども、そのへまな言動が、必ずわれらの貴い教訓になるという点に於いてなかなか忘れ難い先生なのである。私は今年のお正月、或る文芸雑誌に「黄村先生言行録」と題して先生が山椒魚に熱中して大損をした時の事を報告し、世の賢者たちに、なんだ、ばかばかしいと顰蹙《ひんしゅく》せられて、私自身も何だか大損をしたような気さえしたのであるが、このたびの先生の花吹雪格闘事件もまた、世の賢者たちに或《ある》いは憫笑《びんしょう》せられるかも知れない。けれども、あの山椒魚の失敗にしても、またこのたびの逸事にしても、先生にとっては、なかなか悲痛なものがあったに違いない、と私には思われてならぬので、前回の不評判にも懲《こ》りずに、今回ふたたび先生の言行を記録せむとする次第なのである。先生の失敗は、私たち後輩への佳《よ》き教訓になるような気がすると、前回に於いても申述べて置いた筈《はず》であるが、そんなら一体どんな教訓になるのか、一言でいえば何か、と詰寄《つめよ》られると、私は困却するのである。人間、がらでない事をするな、という教訓のようでもあり、いやいや、情熱の奔騰《ほんとう》するところ、ためらわず進め! 墜落しても男子の本懐、何でもやってみる事だ、という激励のようでもあり、結局、私にも何が何やらわからないのだ。けれども、何が何やらわからぬ事実の中から、ふいと淋《さび》しく感ずるそれこそ、まことの教訓のような気もするのである。吹く風をなこその関という歌の心を一言でいい切る事が至難なのと同様に、どうも、親切な教訓ほど、一言で明示する事はむずかしいようである。先日、私が久しぶりで阿佐ヶ谷の黄村先生のお宅へお伺いしたら、先生は四人の文科大学生を相手に、気焔《きえん》を揚《あ》げておられた。私もさっそく四人の大学生の間に割込んで、先生の御高説を拝聴したのであるが、このたびの論説はなかなか歯切れがよろしく、山椒魚の講義などに較べて、段違いの出来栄えのようであったから、私は先生から催促されるまでも無く、自発的に懐中から手帖を出して速記をはじめた。以下はその座談筆記の全文であって、ところどころの括弧《かっこ》の中の文章は、私の蛇足《だそく》にも似た説明である事は前回のとおりだ。

 なに、むずかしい事はありません。つまらぬ知識に迷わされるからいけない。女は、うぶ。この他には何も要《い》らない。田舎でよく見かける風景だが、麦畑で若いお百姓が、サトやああい、と呼ぶと、はるか向うでそのお里さんが、はああい、と実になんともうれしそうな恥ずかしそうな返事をするね。あれだ。あれだよ。あれでいいのだ。諸君が、もし恋愛小説を書くんだったら、あのような健康な恋愛をこそ書くべきですね。男と女が、コオヒイと称する豆の煮出汁に砂糖をぶち込んだものやら、オレンジなんとかいう黄色い水に蜜柑《みかん》の皮の切端を浮べた薄汚いものを、やたらにがぶがぶ飲んで、かわり番こに、お小用に立つなんて、そんな恋愛の場面はすべて浅墓というべきです。先日、私は近所の高砂館へ行って久し振りに活動を見て来たが、なんとかいう旧劇にちょっといい場面が一つありました。若侍が剣術の道具を肩にかついで道場から帰る途中、夕立になって、或る家の軒先に雨宿りするのですが、その家には十六、七の娘さんがいてね、その若侍に傘《かさ》をお貸ししようかどうしようかと玄関の内で傘を抱いたままうろうろしているのですね。あれは実に可愛かった。私はあの若侍を嫉妬《しっと》しました。女は、あのようでなければいけない。若い男のお客さんにお茶を差出す時なんか、緊張のあまり、君たちの言葉を遣《つか》えば、つまり、意識過剰という奴をやらかして、お茶碗をひっくり返したりする実に可愛い娘さんがいるものだが、あんなのが、まあ女性の手本と言ってよい。男は何かというと、これは、私も最近ようやく気附いた事で、この大発見を諸君に易々と打明けるのは惜しいのであるが、(そうおっしゃらずに、へへ、と言いし学生あり。師を軽んずるは古来、文科学生の通弊とす。)ただいま期せずして座の一隅より、切望懇願のうめき声が発せられたようでもあり、まあ致しかた無い、御伝授しましょう。男子の真価は、武術に在り! (一座色をなせり。逃仕度《にげじたく》せし臆病の学生もあった。)強くなくちゃいけない。柔道五段、剣道七段、あるいは弓術でも、からて術でも、銃剣術でも、何でもよいが、二段か三段くらいでは、まだ心細い。すくなくとも、五段以上でなければいけない。愚かな意見とお思いの方もあるだろうが、たとい国の平和な時でも、男子は常に武術の練磨に励まなければいかなかったのだ。科学者たらんとする者も、政治家たらんとする者も、また宗教家、あるいは、そこに(速記者のほうを、ぐいと顎《あご》でしゃくって、)いらっしゃる芸術家の卵にしても、まず第一に、武術の練磨に努めなければならなかったのに、うかつにも之《これ》を怠っていたので、ごらんのとおり皆さん例外なく卑屈である。怒り給うな。私だって諸君と同じ事です。私は過去に於いて、政治運動をした事もある。演劇の団体に関係した事もある、工場を経営した事もある、胃腸病の薬を発明した事もある、また、新体詩というものを試みた事だってある。けれども、一つとして、ものにならなかった。いつもびくびくして、自己の力を懐疑し、心の落ちつく場所は無く、お寺へかよって禅を教えてもらったり、或《ある》いは部屋に閉じこもって、手当り次第、万巻いや千巻くらいの書を読みちらしたり、大酒を飲んだり、女に惚れた真似をしたり、さまざまに工夫してみたのであるが、どうしても自分の生き方に自信を持てなかった。新劇の運動に参加しても、すぐに、これでいいのか、という疑問が生じて、それこそ三日経てば、いやになったほうです。何か自分に根本的な欠陥があるのではないか、と沈思の末、はたと膝を打った。武術! これであります。私は男子の最も大事な修行を忘れていたのでした。男子は、武術の他には何も要らない。男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくてはかなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠に世の敗北者です。人と対談しても、壇上にて憂国の熱弁を振うにしても、また酒の店でひとりで酒を飲んでいる時でも、腕に覚えの無い男は、どこやら落ちつかず、いやらしい眼つきをして、人に不快の念を生じさせ、蔑視《べっし》せられてしまうものです。文学の場合だって同じ事だ。(ぎょろりと速記者を、にらむのである。)文学と武術とは、甚だ縁の遠いもので、青白く、細長い顔こそ文学者に似つかわしいと思っているらしい人もあるようだが、とんでもない。柔道七段にでもなって見なさい。諸君の作品の悪口を言うものは、ひとりも無くなります。あとで殴られる事を恐れて悪口を言わないのではない。諸君の作品が立派だからである。そこにいらっしゃる先生(と、またもや、ぐいと速記者のほうを顎でしゃくって、)その先生の作品などは、時たま新聞の文芸欄で、愚痴《ぐち》といやみだけじゃないか、と嘲笑《ちょうしょう》せられているようで、お気の毒に思っていますが、それもまたやむを得ない事で、今まで三十何年間、武術を怠り、精神に確固たる自信が無く、きょうは左あすは右、ふらりふらりと千鳥足の生活から、どんな文芸が生れるか凡《およ》そわかり切っている事です。いまからでも柔道あるいは剣道の道場へ通うようにするがいい。本当に笑いごとではないのです。明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも凜乎《りんこ》たる気韻《きいん》がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。ただの学者、政治家と思われている人でも、いざという時には、非凡な武技を発揮した。小才だけでは、どうにもならぬ。武術の達人には落ちつきがある。この落ちつきがなければ、男子はどんな仕事もやり了《おお》せる事が出来ない。伊藤博文だって、ただの才子じゃないのですよ。いくたびも剣《つるぎ》の下をくぐって来ている。智慧《ちえ》のかたまりのように言われている勝海舟だって同じ事です。武術に練達していなければ、絶対に胆《きも》がすわらない。万巻の書を読んだだけでは駄目だ。坊主だってそうです。偉い宗教家は例外なく腕力が強い。文覚上人の腕力は有名だが、日蓮だって強そうじゃないか。役者だってそうです。名人と言われるほどの役者には、必ず武術の心得があったものです。その日常生活に於て、やたらに腕力をふるうのは、よろしくないが、けれどもひそかに武技を練磨し、人に知られず剣道七段くらいの腕前になっていたら、いいだろうなあ。(先生も、学生も、そろって深い溜息《ためいき》をもらせり。)いや、しかし之は、閑人のあこがれに終らせてはいけない。諸君は、今日これから直ちに道場へ通わなければならぬ。思う念力、岩をもとおす。私は、もはや老齢で、すでに手おくれかも知れぬが、いや、しかし私だって、――(口を噤《つぐ》んだ。けれども、何か心に深く決するところがあるらしく察せられた。)

     二

 このたびの黄村先生の、武術に就《つ》いての座談は、私の心にも深くしみるものがあった。男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。口が達者で図々《ずうずう》しく、反省するところも何も無い奴には、ものも言いたくないし、いきなり鮮やかな背負投げ一本くらわせて、そいつのからだを大きく宙に一廻転させ、どたん、ぎゃっという物音を背後に聞いて悠然と引上げるという光景は、想像してさえ胸がすくのである。歌人の西行《さいぎょう》なども、強かったようだ。荒法師の文覚《もんがく》が、西行を、きざな奴だ、こんど逢《あ》ったら殴ってやろうと常日頃から言っていた癖に、いざ逢ったら、どうしても自分より強そうなので、かえって西行に饗応《きょうおう》したとかいう話も伝わっているほどである。まことに黄村先生のお説のとおり、文人にも武術の練磨が大いに必要な事かも知れない。私が、いつも何かに追われているように、朝も昼も夜も、たえずそわそわして落ちつかぬのは、私の腕力の貧弱なのがその最大理由の一つだっ
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