大木の如く、近所の質屋の猛犬を蹴殺したとかの噂も仄聞《そくぶん》致し居り、甚だ薄気味わるく御座候えば、老生はこの人物に対しては露骨に軽侮《けいぶ》の色を示さず、常に技巧的なる笑いを以て御挨拶申上げ居り候。しかるに今この怪人物、ぬっと屋台店に這入《はい》り来り、やあ老人、やってるな、と叫び候。かれ既に少しく酔っている様子に見え候えども、老人やってるな、とはぶしつけな奴と内心ひそかに呆《あき》れ申候。お手前だって、やはり老人には候わずや。武士は相見互いという事あるを知らずや。心無き振舞いかな、と老生少しく苦々しく存じ居り候ところに、またもや、老人もこのごろは落ちましたな、こんな店でとぐろを巻いているとは知らなかった、と例の人を見くだすが如き失敬の態度にて老生を嘲笑《ちょうしょう》仕《つかまつ》り候。老生は蛇では御座らぬ。とぐろとは無礼千万なりと思えども、相手は身のたけ六尺、松の木の腕なれば、老生もじっと辛抱仕り候て、あいまいの笑いを口辺に浮べ、もっぱら敬遠の策を施し居り候。しかるに杉田老画伯は調子に乗り、一体この店には何があるのだ、生葡萄酒か、ふむ、ぶていさいなものを飲んでいやがる、おやじ、おれにもその生葡萄酒ちょうものを一杯ついでもらいたい、ふむ、これが生葡萄酒か、ぺっぺ、腐った酢《す》の如きものじゃないか、ごめんこうむる、あるじ勘定をたのむ、いくらだ、とわれを嘲弄《ちょうろう》せんとする意図あからさまなる言辞を吐き、帰りしなにふいと、老人、気をつけ給え、このごろ不良の学生たちを大勢集めて気焔《きえん》を揚げ、先生とか何とか言われて恐悦がっているようだが、汝は隣組の注意人物になっているのだぞ、老婆心ながら忠告致す、と口速に言いてすなわち之《これ》が捨台詞《すてぜりふ》とでも称すべきものならんか、屋台の暖簾《のれん》を排して外に出でんとするを、老生すかさず、待て! と叫喚して押止め申候。われは隣組常会に於いて決議せられたる事項にそむきし事ただの一度も無之、月々に割り当てられたる債券は率先して購入仕り、また八幡宮に於ける毎月八日の武運長久の祈願には汝等と共に必ず参加申上候わずや、何を以てか我を注意人物となす、名誉毀損なり、そもそも老婆心の忠告とは古来、その心裡の卑猥《ひわい》陋醜《ろうしゅう》なる者の最後に試みる牽制の武器にして、かの宇治川先陣、佐々木の囁《ささや》きに徴してもその間の事情明々白々なり、いかにも汝は卑怯未練の老婆なり、殊にもわが親愛なる学生諸君を不良とは何事、義憤制すべからず、いまこそ決然立つべき時なり、たとい一日たりとも我は既に武術の心得ある男子なり、呉下阿蒙《ごかのあもう》には非ざるなり、撃つべし、かれいかに質屋の猛犬を蹴殺したる大剛と雖も、南無八幡! と念じて撃たば、まさに瓦鶏にも等しかるべし、やれ! と咄嗟《とっさ》のうちに覚悟を極《き》め申候て、待て! と叫喚に及びたる次第に御座候。相手は、何かというけげんの間抜けづらにて、ちらと老生を見返り、ふんと笑って屋台の外に出るその背後に浴びせ更にまた一声、老婆待て! と呼ばわり、老生も続いて屋台の外に躍り出申候。屋台の外は、落花紛々。老生の初陣を慶祝するが如き風情に有之候。老生はただちに身仕度を開始せり。まず上顎の入歯をはずし、道路の片隅に安置せり。この身仕度は少しく苦笑の仕草に似たれども、老生の上顎は御承知の如く総入歯にて、之を作るに二箇月の時日と三百円の大金を掛申候ものに御座候えば、ただいま松の木の怪腕と格闘して破損などの憂目を見てはたまらぬという冷静の思慮を以てまず入歯をはずし路傍に安置仕り候ものにて、さて、目前の大剛を見上げ、汝はこのごろ生意気なり、隣組は仲良くすべきものなり、人のあらばかり捜して嘲笑せんとの心掛は下品|尾籠《びろう》の極度なり、よしよし今宵は天に代りて汝を、などと申述べ候も、入歯をはずし申候ゆえ、発音いちじるしく明瞭を欠き、われながらいやになり、今は之まで、と腕を伸ばして、老画伯の赤銅色に輝く左頬をパンパンパンと三つ殴《なぐ》り候えども、画伯はあっけにとられたる表情にて、口を少しくあけ、ぼんやりつっ立っているばかりに御座候。張合い無き事おびただしき果合《はたしあい》に有之候。相手は無言なれば、老生も無言のままに引下り、件《くだん》の入歯を路傍より拾い上げんとせしに、あわれ、天の悪戯《いたずら》にや、いましめにや。落花間断なく乱れ散り、いつしか路傍に白雪の如く吹き溜り候て、老生の入歯をも被い隠したりと見え、いずこもただ白皚々《はくがいがい》の有様に候えば老生いささか狼狽仕り、たしかにここと思うあたりを手さぐりにて這うが如くに捜し廻り申候。なんですか、とわが呆然《ぼうぜん》たる敵手は、この時、夢より醒《さ》めたる面持にて老生に問い、老生は這い廻りながら、いや、入歯ですがね、たしかに、この辺に、などと呟いて、その気まりの悪さ。古今東西を通じて、かかるみじめなる経験に逢いし武芸者は、おそらくは一人もあるまじと思えば、なおのこと悲しく相成候《あいなりそうろう》て、なにしろあれは三百円、などと低俗の老いの愚痴もつい出て、落花繽紛たる暗闇の底をひとり這い廻る光景に接しては、わが敵手もさすがに惻隠《そくいん》の心を起し給いし様子に御座候。老生と共に四つ這いになり、たしかに、この辺なのですか、三百円とは、高いものですね、などと言いつつ桜の花びらの吹溜りのここかしこに手をつっこみ、素直にお捜し下さる次第と相成申候。ありがとうございます、という老生の声は、獣の呻き声にも似て憂愁やるかた無く、あの入歯を失わば、われはまた二箇月間、歯医者に通い、その間、一物も噛む事かなわず、わずかにお粥《かゆ》をすすって生きのび、またわが面貌も歯の無き時はいたく面変りてさらに二十年も老け込み、笑顔の醜怪なる事無類なり、ああ、明日よりの我が人生は地獄の如し、と泣くにも泣けぬせつない気持になり申候いき。杉田老画伯は心利きたる人なれば、やがて屋台店より一本の小さき箒《ほうき》を借り来り、尚《なお》も間断なく散り乱れ積る花びらを、この辺ですか、この辺ですか、と言いつつさっさっと左右に掃きわけ、突如、あ! ありましたあ! と歓喜の声を上げ申候。たったいま己の頬をパンパンパンと三つも殴った男の入歯が見つかったとて、邪念無くしんから喜んで下さる老画伯の心意気の程が、老生には何にもまして嬉《うれ》しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びらおびただしく附着致し居る様子にて、噛みしめると幽《かす》かに渋い味が感ぜられ申候。杉田さん、どうか老生を殴って下さい、と笑いながら頬を差出申候ところ、老画伯もさるもの、よし来た、と言い掌に唾《つばき》して、ぐゎんと老生の左の頬を撃ちのめし、意気揚々と引上げ行き申候。も少し加減してくれるかと思いのほか、かの松の木の怪腕の力の限りを発揮して殴りつけたるものの如く、老生の両眼より小さき星あまた飛散致し、一時、失神の思いに御座候。かれもまた、なかなかの馬鹿者に候。以上は、わが武勇伝のあらましの御報に御座候えども、今日つらつら考えるに、武術は同胞に対して実行すべきものに非ず、弓箭《きゅうせん》は遠く海のあなたに飛ばざるべからず、老生も更に心魂を練り直し、隣人を憎まず、さげすまず、白氏の所謂、残燈滅して又明らかの希望を以て武術の妙訣《みょうけつ》を感得仕るよう不断精進の所存に御座候えば、卿等《けいら》わかき後輩も、老生のこのたびの浅慮の覆轍《ふくてつ》をいささか後輪の戒となし給い、いよいよ身心の練磨に努めて決して負け給うな。祈念。



底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:夏海
2000年11月17日公開
2004年3月4日修正
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