たのであろうか。私は暗い気がした。私は五、六年前から、からだの調子を悪くして、ピンポンをやってさえ発熱する始末なのである。いまさら道場へかよって武技を練るなどはとても出来そうもないのである。私は一生、だめな男なのかも知れない。それにしても、あの鴎外がいいとしをして、宴会でつかみ合いの喧嘩《けんか》をしたとは初耳である。本当かしら。黄村先生は、記録にちゃんと残っている、と断言していたが、出鱈目《でたらめ》ではなかろうか。私は半信半疑で鴎外全集を片端から調べてみた。しかるに果してそれは厳然たる事実として全集に載っているのを発見して、さらに私は暗い気持になってしまった。あんな上品な紳士然たる鴎外でさえ、やる時にはやったのだ。私は駄目だ。二、三年前、本郷三丁目の角で、酔っぱらった大学生に喧嘩を売られて、私はその時、高下駄《たかげた》をはいていたのであるが、黙って立っていてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思った。
「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」
 大学生もこれには張合いが抜けた様子で、「君、すまないが、火を貸してくれ。」と言って私の煙草《たばこ》から彼の煙草に火を移して、そのまま立去ったのである。けれども流石《さすが》に、それから二、三日、私は面白くなかった。私が柔道五段か何かであったなら、あんな無礼者は、ゆるして置かんのだが、としきりに口惜しく思ったものだ。けれども、鴎外は敢然とやったのだ。全集の第三巻に「懇親会」という短篇がある。
(前略)
 此時《このとき》座敷の隅を曲って右隣の方に、座蒲団《ざぶとん》が二つ程あいていた、その先の分の座蒲団の上へ、さっきの踊記者が来て胡坐《あぐら》をかいた。横にあった火鉢を正面に引き寄せて、両手で火鉢の縁を押えて、肩を怒らせた。そして顋《あご》を反《そ》らして斜に僕の方を見た。傍へ来たのを見れば、褐色の八字|髭《ひげ》が少しあるのを、上に向けてねじってある。今初めて見る顔である。
 その男がこう云った。
「へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあった。」
 こう言いながら、火鉢を少し持ち上げて、畳を火鉢の尻で二、三度とんとんと衝《つ》いた。大沼の重りの象徴にする積《つも》りと見える。
「今度の奴は
前へ 次へ
全19ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング