いのがれをした事もあった。
「矢絣《やがすり》の銘仙《めいせん》があったじゃないか。あれを着たら、どうだい?」
「いいわよ、いいわよ。これでいいの。」心の内は生死の境だ。危機一髪である。
姿を消した自分の着物が、どんなところへ持ち込まれているのか、少しずつ節子にもわかって来た。質屋というものの存在、機構を知ったのだ。どうしてもその着物を母のお目に掛けなければならぬ窮地におちいった時には、苦心してお金を都合して兄に手渡す。勝治は、オーライなどと言って、のっそり家を出る。着物を抱《かか》えてすぐに帰って来る事もあれば、深夜、酔って帰って来て、「すまねえ」なんて言って、けろりとしていることもある。後になって、節子は、兄に教わって、ひとりで質屋へ着物を受け出しに行くようにさえなった。お金がどうしても都合できず、他の着物を風呂敷に包んで持って行って、質屋の倉庫にある必要な着物と交換してもらう術なども覚えた。
勝治は父の画を盗んだ。それは、あきらかに勝治の所業であった。その画は小さいスケッチ版ではあったが、父の最近の佳作の一つであった。父の北海道旅行の収穫である。およそ二十枚くらい画いて来たのだが、仙之助氏には、その中でもこの小さい雪景色の画だけが、ちょっと気にいっていたので、他の二十枚程の画は、すぐに画商に手渡しても、その一枚だけは手許に残して、アトリエの壁に掛けて置いた。勝治は平気でそれを持ち出した。捨て値でも、百円以上には、売れた筈《はず》である。
「勝治、画はどうした。」二、三日経って、夕食の時、父がポツンと言った。わかっていたらしい。
「なんですか。」平然と反問する。みじんも狼狽《ろうばい》の影が無い。
「どこへ売った。こんどだけは許す。」
「ごちそうさん。」勝治は箸《はし》をぱちっと置いてお辞儀をした。立ち上って隣室へ行き、うたはトチチリチン、と歌った。父は顔色を変えて立ち上りかけた。
「お父さん!」節子はおさえた。「誤解だわ、誤解だわ。」
「誤解?」父は節子の顔を見た。「お前、知ってるのか。」
「え、いいえ。」節子には、具体的な事は、わからなかった。けれども、およその見当はついた。「私が、お友達にあげちゃったの。そのお友達は、永いこと病気なの。だから、ね、――」やっぱり、しどろもどろになってしまった。
「そうか。」父には勿論、その嘘《うそ》がわかっていた。けれども節子の懸命な声に負けた。「わるい奴だ。」と誰にともなく言って、また食事をつづけた。節子は泣いた。母も、うなだれていた。
節子には、兄の生活内容が、ほぼ、わかって来た。兄には、わるい仲間がいた。たくさんの仲間のうち、特に親しくしているのが三人あった。
風間七郎。この人は、大物であった。勝治は、その受験勉強の期間中、仮にT大学の予科に籍を置いていたが、風間七郎は、そのT大学の予科の謂《い》わば主《ぬし》であった。年齢もかれこれ三十歳に近い。背広を着ていることの方が多かった。額《ひたい》の狭い、眼のくぼんだ、口の大きい、いかにも精力的な顔をしていた。風間という勅選議員の甥《おい》だそうだが、あてにならない。ほとんど職業的な悪漢である。言う事が、うまい。
「チルチル(鶴見勝治の愛称である)もうそろそろ足を洗ったらどうだ。鶴見画伯のお坊ちゃんが、こんな工合いじゃ、いたましくて仕様が無い。おれたちに遠慮は要らないぜ。」思案深げに、しんみり言う。
チルチルなるもの、感奮一番せざるを得ない。水臭いな、親爺《おやじ》は親爺、おれはおれさ、ザマちゃん(風間七郎の愛称である)お前ひとりを死なせないぜ、なぞという馬鹿な事を言って、更に更に風間とその一党に対して忠誠を誓うのである。
風間は真面目な顔をして勝治の家庭にまで乗り込んで来る。頗《すこぶ》る礼儀正しい。目当《めあて》は節子だ。節子は未だ女学生であったが、なりも大きく、顔は兄に似ず端麗《たんれい》であった。節子は兄の部屋へ紅茶を持って行く。風間は真白い歯を出して笑って、コンチワ、と言う。すがすがしい感じだった。
「こんないい家庭にいて、君、」と隣室へさがって行く節子に聞える程度の高い声で、「勉強しないって法は無いね。こんど僕は、ノオトを都合してやるから勉強し給え。」と言う。
勝治は、にやにや笑っている。
「本当だぜ!」風間は、ぴしりと言う。
勝治は、あわてふためき、
「うん、まあ、うん、やるよ。」と言う。
鈍感な勝治にも、少しは察しがついて来た。節子を風間に取りもってやるような危険な態度を表しはじめた。みつぎものとして、差し上げようという考えらしい。風間がやって来ると用事も無いのに節子を部屋に呼んで、自分はそっと座はずす。馬鹿げた事だ。夜おそく、風間を停留場まで送らせたり、新宿の風間のアパートへ、用も無い教科書などを
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