ち直し、
「満洲にも医学校はある。」
これでは問題が、更にややこしくなったばかりで、なんにもならない。母は今更、チベットとは言い直しかねた。そのまま引きさがって、勝治に向い、チベットは諦めて、せめて満洲の医学校、くらいのところで堪忍《かんにん》してくれぬか、といまは必死の説服に努めてみたが、勝治は風馬牛《ふうばぎゅう》である。ふんと笑って、満洲なら、クラスの相馬君も、それから辰ちゃんだって行くと言ってた、満洲なんて、あんなヘナチョコどもが行くのにちょうどよい所だ、神秘性が無いじゃないか、僕はなんでもチベットへ行くのだ、日本で最初の開拓者になるのだ、羊を一万頭も飼って、それから、などと幼い空想をとりとめもなく言い続ける。母は泣いた。
とうとう、父の耳にはいった。父は薄笑いして、勝治の目前で静かに言い渡した。
「低能だ。」
「なんだっていい、僕は行くんだ。」
「行ったほうがよい。歩いて行くのか。」
「ばかにするな!」勝治は父に飛びかかって行った。これが親不孝のはじめ。
チベット行は、うやむやになったが、勝治は以来、恐るべき家庭破壊者として、そろそろ、その兇悪《きょうあく》な風格を表しはじめた。医者の学校へ受験したのか、しないのか、(勝治は受験したと言っている)また、次の受験にそなえて勉強しているのか、どうか、(勝治は、勉強しているさ、と言っている)まるで当てにならない。勝治の言葉を信じかねて、食事の時、母がうっかり、「本当?」と口を滑らせたばかりに、ざぶりと味噌汁《みそしる》を頭から浴びせられた。
「ひどいわ。」朗らかに笑って言って素早く母の髪をエプロンで拭いてやり、なんでもないようにその場を取りつくろってくれたのは、妹の節子である。未だ女学生である。この頃から、節子の稀有《けう》の性格が登場する。
勝治の小使銭は一月三十円、節子は十五円、それは毎月きまって母から支給せられる額である。勝治には、足りるわけがない。一日で無くなる事もある。何に使うのか、それは後でだんだんわかって来るのであるが、勝治は、はじめは、「わかってるじゃねえか、必要な本があるんだよ」と言っていた。小使銭を支給されたその日に、勝治はぬっと節子に右手を差し出す。節子は、うなずいて、兄の大きい掌に自分の十円紙幣を載せてやる。それだけで手を引込める事もあるが、なおも黙って手を差し出したままでいる事もある。節子は一瞬泣きべそに似た表情をするが、無理に笑って、残りの五円紙幣をも勝治の掌に載せてやる。
「サアンキュ!」勝治はそう言う。節子のお小使は一銭も残らぬ。節子は、その日から、やりくりをしなければならぬ。どうしても、やりくりのつかなくなった時には、仕方が無い、顔を真赤にして母にたのむ。母は言う。
「勝治ばかりか、お前まで、そんなに金使いが荒くては。」
節子は弁解をしない。
「大丈夫。来月は、だいじょうぶ。」と無邪気な口調で言う。
その頃は、まだよかったのだ。節子の着物が無くなりはじめた。いつのまにやら箪笥《たんす》から、すっと姿を消している。はじめ、まだ一度も袖《そで》をとおさぬ訪問着が、すっと無くなっているのに気附いた時には、さすがに節子も顔色を変えた。母に尋ねた。母は落ちついて、着物がひとりで出歩くものか、捜してごらん、と言った。節子は、でも、と言いかけて口を噤《つぐ》んだ。廊下に立っている勝治を見たのだ。兄は、ちらと節子に目くばせをした。いやな感じだった。節子は再び箪笥を捜して、
「あら、あったわ。」と言った。
二人きりになった時、節子は兄に小声で尋ねた。
「売っちゃったの?」
「わしゃ知らん。」タララ、タ、タタタ、廊下でタップ・ダンスの稽古《けいこ》をして、「返さない男じゃねえよ。我慢しろよ。ちょっとの間じゃねえか。」
「きっとね?」
「あさましい顔をするなよ。告げ口したら、ぶん殴《なぐ》る。」
悪びれた様子もなかった。節子は、兄を信じた。その訪問着は、とうとうかえって来なかった。その訪問着だけでなく、その後も着物が二枚三枚、箪笥から消えて行くのだ。節子は、女の子である。着物を、皮膚と同様に愛惜している。その着物が、すっと姿を消しているのを発見する度毎に、肋骨《ろっこつ》を一本失ったみたいな堪えがたい心細さを覚える。生きて甲斐《かい》ない気持がする。けれどもいまは、兄を信じて待っているより他は無い。あくまでも、兄を信じようと思った。
「売っちゃ、いやよ。」それでも時々、心細さのあまり、そっと勝治に囁《ささや》くことがある。
「馬鹿野郎。おれを信用しねえのか。」
「信用するわ。」
信用するより他はない。節子には、着物を失った淋しさの他に、もし此《こ》の事が母に勘附《かんづ》かれたらどうしようという恐ろしい不安もあった。二、三度、母に対して苦しい言
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