に安楽な死に方《かた》を致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張つて、死んでゆきました。まへから、心臓が、ひどく悪かつたのです。木枯《こがら》しのおそろしく強い朝でしてな。あはれな話ですね。けれども、あの子は、見どころあります。それから母子ふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持つて豆腐いつちやう買ひに行くのが、一ばんつらかつた。いまでは、どうやら、朝太郎も、皆様のおかげで、もの書いてお金いただけるやうになつて、わたくしは、朝太郎が、もう、どんな、ばかをしても、信じてゐる。むかし、あれの父をあんなに大事にかばつて呉れたこと思へば、あの子が、ありがたくて、もつたいなくて、あの子のことだつたら、どんなことがあつても、たとへあれが、人殺ししたつて、わたくしは、あれを信じてゐる。あれは、情の深い子です。ほんとに、よろしくお願ひします。
 さう言つて、軽くお辞儀をし、さちよも思はずそつとお辞儀をかへして、ゆくりなく顔を見合せ、ほ、ほと同時にはなやかに笑つて、それから二人、気持よく泣いた。
 十時に三木が、酔つてかへつた。久留米絣に、白つぽいごはごはした袴をはいて、明治維新の書生の感じであつた。のつそり茶の間へはひつて来て、ものも言はず、長火鉢の奥に坐つてゐる老母を蹴飛ばすやうにして追ひたて、自分がその跡にどつかと坐つて、袴の紐をほどきながら、
「何しに来たんだい?」坐つたままで袴を脱いでそれを老母にほふつてやつて、「ああ、お母さん。あなたは、ちよつと二階へ行つてろ。僕は、この子に話があるんだ。」
 二人きりになると、さちよは、
「自惚れちや、だめよ。あたし、仕事の相談に来たの。」
「かへれ。」家に在るときの歴史的さんは、どこか憂欝で、けはしかつた。
「御気嫌、わるいのね。」さちよは、平気だつた。「あたし、数枝のアパアトから逃げて来たの。」
「おや、おや。」三木は冷淡だつた。がぶがぶ番茶を呑んでゐる。
「あたし、働く。」さう言つて、自分にも意外な、涙があふれて落ちて、そのまま、めそめそ泣いてしまつた。
「もう、僕は、君をあきらめてゐるんだ。」三木は、しんからいまいましさうに顔をしかめて、「君には、手のつけられない横着なところがある。君は、君自身の苦悩に少し自惚れ持ち過ぎてゐやしないか? どうも、僕は、君を買ひかぶりすぎてゐたやうだ。君の苦しみなんざ、掌《てのひら》に針たてたくらゐのもので、苦しいには、ちがひない、飛びあがるほど苦しいさ、けれども、それでわあわあ騒ぎまはつたら、人は笑ふね。はじめのうちこそ愛嬌にもなるが、そのうちに、人は、てんで相手にしない。そんなものに、かまつてゐる余裕なんて、かなしいことには、いまの世の中の人たち、誰にもないのだ。僕は知つてゐるよ。君の思つてゐることくらゐ、見|透《とほ》せないでたまるか。あたしは、虫けらだ。精一ぱいだ。命をあげる。ああ、信じてもらへないのかなあ。さうだらう? いづれ、そんなところだ。だけど、いいかい、真実といふものは、心で思つてゐるだけでは、どんなに深く思つてゐたつて、どんなに固い覚悟を持つてゐたつて、ただ、それだけでは、虚偽だ。いんちきだ。胸を割つてみせたいくらゐ、まつたうな愛情持つてゐたつて、ただ、それだけで、だまつてゐたんぢや、それは傲慢だ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為だ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありやしない。愛情は胸のうち、言葉以前、といふのは、あれも結局、修辞ぢやないか。だまつてゐたんぢや、わからない、さう突放《つつぱな》されても、それは、仕方のないことなんだ。真理は感ずるものぢやない。真理は、表現するものだ。時間をかけて、努力して、創りあげるものだ。愛情だつて同じことだ。自身のしらじらしさや虚無を堪へて、やさしい挨拶送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は、最高の奉仕だ。みぢんも、自分の満足を思つては、いけない。」また、番茶を、がぶがぶ呑んで、「君は一たい、いままで何をして来た。それを考へてみるがいい。言へないだらう。言へない筈だ。何もしやしない。僕は、君を、もう少し信頼してゐた。あの山宿を逃げるときだつて、僕は、気まぐれから君に手伝ひしたのぢやないのだぜ。君に、たしかな目的があつて、制止できない渇望があつて、さうして、ちやんと聡明な、具体的な計画があつての、出京だとばかり思つてゐた。それが、どうだ、八重田数枝のとこに、ころがりこんで、そのまんま、何もしやしない。八重田数枝は、あんな、気のいいやつだから、だまつて、のんきさうに君を世話してゐたやうだつたが、でも、ずいぶん迷惑だつたらうと思ふよ。君が精一ぱいなら、八重田数枝だつて、自分ひとりを生かすのだけで、それだけで精一ぱい、やつとのところで生きてゐるのだ。少しは、人の弱さを、大事にしろよ。君の思ひあがりは、おそろしい。僕だつて、君に、いくど恥をかかされてゐるかわからない。あんな、薄汚い新聞記者と、喧嘩させて、だまつて面白がつて見てゐやがつて、僕は、あんなやつとは、口きくのさへいやなんだぜ。僕は、プライドの高い男だ。どんな偉い先輩にでも、呼び捨《すて》にされると、いやな気がする。僕は、ちやんと、それだけの仕事をしてゐる。あんな奴と、決闘して、あとで、僕は、どんなに恥づかしく、くるしい思ひしたか、君は知るまい。生れてはじめて、あんなぶざまな真似をした。君は、一たい僕をなんだと思つてゐるのだ。八重田数枝のところに居辛《ゐづら》くなつて、そうして、こんどは僕の家へ飛び込んで来て、自惚れちやだめよ、仕事の相談に来たの、なんて、いつもの僕なら、君はいまごろ横つつらの二つや三つぶん殴られてゐる。」三木は流石に、蒼くなつてゐた。
 さちよは、ぼんやり顔をあげて、
「殴らないの?」
「寝て起きて来たやうなこと言ふなよ。」苦笑して、煙草のけむりを、ゆつくり吐いた。「かへり給へ。僕は、言ひたいだけのことは、言つたんだ。あとは、もつぱら敬遠主義だ。君も少しは考へるがいい。かへれ。路頭に迷つたつて、僕の知つたことぢやない。」
 もぢもぢして、
「路頭は、寒くて、いや。」
 三木は、あやふく噴き出しさうになり、
「笑はせようたつて、だめさ。」言ひながら、はつきり負《ま》けたのを意識した。
「さちよ、ここにゐるか。」
「ゐる。」
「女優になるか。」
「なる。」
「勉強するか。」
「する。」
 三木の腕の中で、さちよは、小声で答へてゐた。
「ばかなやつ。」三木は、さちよのからだから離れて、「おふくろと、どんな話をしてゐた?」いつもの、やさしい歴史的さんに、かへつてゐた。
「あたし、お母さん好きよ。」さちよは、髪を掻きあげて、「これから、うんと孝行するの。」
 さうして、三木との同棲がはじまつた。三木は劇壇に、奇妙な勢力を持つてゐた。背後に、元老の鶴屋北水の頑強な支持もあつて、その特異な作風が、劇壇の人たちに敬遠にちかいほどの畏怖の情を以て見られてゐた。さちよの職場は、すぐにきまつた。鴎座である。そのころの鴎座は、素晴しかつた。日本の知識人は、一様に、鴎座の努力を尊敬してゐた。一座の指導者は、尾沼栄蔵、由緒正しき貴族である。俳優も、一流の名優が競つて参加し、外国の古典やら、また、日本の無名作家の戯曲をも、大胆に採用して、毎月一回一週間づつの公演を行ひ、日本の文化を、たしかに高めた。元老、鶴屋北水の推薦と、三木朝太郎の奔走のおかげで、さちよは、いきなり大役をふられた。すなはち、三人姉妹の長女、オリガである。いいかい、オリガは、センチメントおさへて、おさへて、おさへ切れなくなる迄おさへて、幕切れで、どつとせきあげる、それだけ心掛けて居ればいいのだ、あとは尾沼君の言ふこと信仰し給へ、あれは偉い男だ。それから、ほかの役者の邪魔をしないやうに、ね。三木は、それだけ言つて、あとは、何も教へなかつた。三木には、また、三木の仕事があるのである。二階の六畳に閉ぢこもつて、原稿用紙、少し書きかけては、くしやくしやに丸めて壁に投げつけ、寝ころんで煙草吸つたり、また起き上つて、こつこつ書いたり、毎夜、おそくまで、眠らずにゐる。何か大きい仕事にでも、とりかかつた様子である。さちよも、なまけてはゐなかつた。毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。
 初日が、せまつた。三木は、こつそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行つた。帰つて来てからさちよに、君がうまいんぢやないんだ、他の役者が下手くそなんだ、尾沼君は、さう言つてゐた。君は、こんどの公演で、きつと評判になるだらう、けれども、それは、君がうまいからぢやないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれてゐるといふことなんだ、さう言つてゐた。いいかい、ちつとも君がすぐれてゐるわけぢやないんだから、かならず、人の讃辞なんか真《ま》に受けちやいけないよ。叱りつけるやうな語調で言つて聞かせて、それでも、その夜は、珍らしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん呑んだ。
 初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であつた。三日目、つまづいた。青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧の演技に、小さい深い蹉跌を与へた。
 高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちやうど一幕目がをはつて、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐つて、大口あいて笑つてゐた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこもり、誰か一こと言ひ出せば、どつと大勢のひとの笑ひの浪が起つて、和気あいあいの風景である。高須は、その入口に佇立した。
 さちよは、高須に気がつかず、未だ演技直後の興奮からさめ切らぬ様子で、天井あふいでヒステリツクな金切声たてて笑ひこけてゐた。
「ちよつと、あなた、ごめんなさい。」
 耳もとで囁き、大きい黒揚羽《くろあげは》の蝶が、ひたと、高須の全身をおほひ隠し、そのまま、すつと入口からさらつていつて、廊下の隅まで、ものも言はず、とつとと押しかへして、
「まあ。ごめんなさい。」ほつそりした姿の女である。眼が大きく鼻筋の長い淋しい顔で、黒いドレスが似合つてゐた。「さちよと、逢はせたくなかつたの。あの子は、とても、あなたのことを気にしてゐる。せつかく評判も、いいところなんだし、ね、おねがひ、あの子を、そつとして置いてやつて。あの子、いま、一生懸命よ。つらいのよ。あたしには、それが判る。あら、あなたは、あたしをご存じない。」顔を赤くして、「ごめんなさい。あなた、高須さんね。さうでせう? あたし、ひと目見て、はつと思つたの。ほんたうに、あたし、はじめてなのに、でも、すぐわかつた。須々木乙彦の、御親戚。どう? あたし、なんでも知つてゐるでせう?」数枝である。芝居がはじまつて、この二、三日、何かと気がもめて、けふはホオルを休んで楽屋に来てゐる。

        ☆

 その夜、ああ、知つてゐるものが見たら、ぎよつとするだらう。須々木乙彦は、生きてゐる。生きて、ウヰスキイを呑んでゐる。昨年の晩秋に、須々木乙彦は、この銀座裏のバアにふらと立ち寄つた。さうして、この同じソフアに腰をおろし、十九のさちよと、雨の話をした。あのときと、同じ姿勢で、少しまへこごみの姿勢で、ソフアに深く腰をおろし、いま、高須隆哉は、八重田数枝と、ウヰスキイ呑みながら、ひそひそ話を交してゐる。ソフアの傍には、八《や》つ手《で》の鉢植、むかしのままに、ばさと葉をひろげて、乙彦が無心に爪で千切《ちぎ》りとつた痕《あと》まで、その葉に残つてゐる。室内の鈍い光線も八つ手の葉に遮ぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらゐに、幽かに輪廓が分明して、眼の下や、両頬に、真黒い陰影がわだかまり、げつそり痩せて、おそろしく老けて見えて、数枝も、話ながら、時をり、ちらと高須の顔を横目で見ては、それが全く別人だ、といふことを知つてゐながら、やはり、なんだか、いやな気がした。似てゐるのである。数枝も、乙
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