、心労つづけた。
 初日が、せまつた。三木は、こつそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行つた。帰つて来てからさちよに、君がうまいんぢやないんだ、他の役者が下手くそなんだ、尾沼君は、さう言つてゐた。君は、こんどの公演で、きつと評判になるだらう、けれども、それは、君がうまいからぢやないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれてゐるといふことなんだ、さう言つてゐた。いいかい、ちつとも君がすぐれてゐるわけぢやないんだから、かならず、人の讃辞なんか真《ま》に受けちやいけないよ。叱りつけるやうな語調で言つて聞かせて、それでも、その夜は、珍らしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん呑んだ。
 初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であつた。三日目、つまづいた。青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧の演技に、小さい深い蹉跌を与へた。
 高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちやうど一幕目がをはつて、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐つて、大口あいて笑つてゐた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこもり、誰か一こと言ひ出せば、どつと大勢のひとの笑ひの浪が起つて、和気あいあ
前へ 次へ
全78ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング