た。家賃三十円くらゐの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言ふと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承つて居ります、何やら、会《くわい》があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りませう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆であつた。さちよは、張りつめてゐた気もゆるんで、まるで、わが家に帰つたやう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさつさとはひつて、あたかも、これは生きかへつた金魚、ひらひら真紅のコオトを脱いで、
「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀して、どうにも甘えた気持になり、両手そろへてお辞儀しながら、ぷつと噴き出す仕末であつた。
 老母は、平気で、
「はい、こんばんは。朝太郎、お世話になります。」と挨拶かへして、これものんきな笑顔である。
 不思議な蘇生の場面であつた。
 長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のやうに綺麗に、ちんまり坐つて、伏目がち、やがて物語ることには、――あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じてゐる。あれ
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