た。家賃三十円くらゐの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言ふと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承つて居ります、何やら、会《くわい》があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りませう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆であつた。さちよは、張りつめてゐた気もゆるんで、まるで、わが家に帰つたやう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさつさとはひつて、あたかも、これは生きかへつた金魚、ひらひら真紅のコオトを脱いで、
「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀して、どうにも甘えた気持になり、両手そろへてお辞儀しながら、ぷつと噴き出す仕末であつた。
老母は、平気で、
「はい、こんばんは。朝太郎、お世話になります。」と挨拶かへして、これものんきな笑顔である。
不思議な蘇生の場面であつた。
長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のやうに綺麗に、ちんまり坐つて、伏目がち、やがて物語ることには、――あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じてゐる。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まへに死にました。まあ、昔自慢してあはれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます、前橋でも一流中の一流の割烹店でございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまつてゐました。あのころは、よかつた。わたくしも、毎日毎日、張り合ひあつて、身を粉にして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。崩れるとなつたら、早いものでした。ふつと気のついた朝には、すつからかん。きれい、さつぱり。可笑《をか》しいやうですよ。父は、みんなに面目ないのですね。さうなつても、まだ見栄張つてゐて、なあに、おれには、内緒でかくしてゐる山がある。金《きん》の出る山ひとつ持つてゐる、とまるで、子供みたいな、とんでもない嘘を言ひ出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れ添うて来た婆にまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくはしく細々とその金の山のこと真顔になつて教へるのです。嘘とわかつてゐるだけに、聞いてゐるはうが、情ないやら、あさましいやら、いぢらしいやら、涙が出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いてゐないのに感附いて、いよいよ、むきになつて、こまかく、ほんたうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命にひそひそ説明して、たうとう、これから皆でその山に行かうではないか、とまで言ひ出し、これには、わたくし、当惑してしまひました。まちの誰かれ見さかひなくつかまへて来ては、その金山のこと言つて、わたくしは恥づかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑ひ草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはひつたばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困つて、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやつてしまひました。そのときに、朝太郎は偉かつた。すぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持つてゐながら、なぜ僕にいままで隠してゐたのです、そんないい事あるんだつたら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、その山の金鉱しらべに行かう、と、もう父の手をひつぱるやうにしてせきたて、また、わたくしを、こつそりものかげに呼んで、お母さん、いいか、お父さんは、もうさきが長くないのだ、おちぶれた人に、恥をかかせちやいけない、とわたくしを、きつく叱りました。わたくしも、さう言はれて、はじめて、ああさうだつたと気がついて、お恥づかしい、わが子ながら、両手合せて拝みたいほどでございました。嘘、とはつきり知りながら、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、わたくしたち親子三人、信濃の奥まで、まゐりました。いま、思ひ出しても、せつなくなります。信濃の山奥の温泉に宿をとり、それからまる一年間、あの子は、降つても照つても父のお伴して山を歩きまはり、日が暮れて宿へかへつては、父の言ふこと、それは芝居と思へないほど、熱心に聞いて、ふたりで何かと研究し、相談し、あしたは大丈夫だ、あしたは大丈夫だと、お互ひ元気をつけ合つて、さうして寝て、また朝早く、山へ出かけて、はうばう父に引つぱりまはされ、さんざ出鱈目の説明聞かされて、それでも、いちいち深くうなづいて、へとへとになつて帰つて来ました。何もかも、朝太郎のおかげです。父は、山宿で一年、張り合ひのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保つて、恥を見せず
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