表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になつてゆくし。」
「えつへつへ。」助七は、急に相好《さうかう》をくづした。「知つてゐやがる。それを言はれちや、一言もない。あなたは、まだ忘れてゐないんだね。おれが、あいつを立派な気高い女にして呉れ、つて、あなたに頼んだこと、まだ、忘れてゐないんだね。こいつあ、まゐつた。いや、ありがたう、ありがたう。こののちともに、よろしくたのむぜ。」言ひながら、そつとドアに耳を寄せて、「あ、いけない。※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルシーニンの登場だ。おれは、あの※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルシーニンの性格は、がまんできないんだ。背筋が、寒くなる。いやな、奴だ。」青年の肩を抱きかかへるやうにして、「ね、むかうへ行かう。楽屋にでも遊びに行つてみるか。」歩きながら、「※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルシーニン。鼻もちならん。おれは、たうとう、せりふまで覚えちやつた。」えへんと軽くせきばらひして、「――さうです。忘れられて了ふでせう。それが私たちの運命なんですから。どうにも仕方がないですよ。私たちにとつて厳粛な、意味の深い、非常に大事のことのやうに考へられるものも、時がたつと、――忘れられて了ふか、それとも重大でなくなつてしまふのです。――ちえつ、まるで三木朝太郎そつくりぢやねえか。――そして、我々がかうやつて忍従してゐる現在の生活が、やがてそのうちに奇怪で、不潔で、無智で、滑稽で、事によつたら、罪深いもののやうにさへ思はれるかも知れないのです。――いよいよ、三木だ。へどが出さうだ。」
「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。
「あのう、これを、高野さんから。」小さく折り畳まれた紙片である。
「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。
「いいえ。」青白い顔の眼の大きいその女の子は、名女優のやうに屹つと威厳を示して、「あなたでは、ございません。」
「僕だ。」高須は、傍から、ひつたくるやうにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆でくつきり色濃くしたためられてゐた。
 ――さつき、あたしの舞台に、ずいぶん高い舌打なげつけて、さうして、さつさと廊下に出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまで判ります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はつきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでせう。自分がまるで、こんにやくの化け物のやうに、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着てゐる青い衣裳を、ずたずた千切り裂きたいほど、不安で、ゐたたまらない思ひでございました。あたしは、ちつとも、鉄面皮ぢやない。生ける屍、そんなきざな言葉でしか言ひ表はせませぬ。あたし、ちつとも有頂天ぢやない。それを知つて下さるのは、あなただけです。あたしを、やつつけないで下さい。おねがひ。見ないふりしてゐて下さい。あたしは、精一ぱいでございます。生きてゆかなければならない。誰があたしに、さう教へたのか。チエホフ先生ではありませぬ。あなたの乙やんです。須々木さんが、あたしにそれを教へて呉れました。けれども、あなたも教へて下さい。一こと、教へて下さい。あたし、間違つてゐませうか。聞かせて下さい。あたしは、甘い水だけを求めて生きてゐる女でせうか。あたしを軽蔑して下さい。ああ、もう、めちやめちやになりました。あたしを呼んでゐます。舞台に出なければなりません。十時に――
 と、書きかけて、そのままになつてゐた。
 高須は顔を蒼くして、少し笑ひ、紙片を二つに裂いた。
「見せろ。あひびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はつきりした語調で言つて、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代といふ役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言ふもんぢやないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いや味《み》だぜ。さちよも、一生懸命に書いたんだらう? 逢つてやれよ。よろこぶぜ。」
 助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまはつていつた。生れてはじめて見る楽屋。

        ☆

 高野さちよは、そのひとつきほどまへ、三木と同棲をはじめてゐた。数枝いいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言へない、鴎は、あれは、唖《おし》の鳥です、とやや錯乱に似た言葉を書き残して、八重田数枝のアパアトから姿を消した。淀橋の三木の家を訪れたのは、その日の夜、八時頃である。三木は不在であつたが、小さく太つた老母がゐ
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