隅につつ立つてゐた青年は、
「たしかですか?」蒼ざめてゐた。
「もう、五六日したら、記事も解禁になるだらうと思ひますが。」善光寺は、新聞社につとめてゐた。
さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの善光寺助七の腕に抱かれて泣いたのだ。
「あなたは、いつから来てゐたの?」冷い語調であつた。
「おれかい?」死んだ大倉喜八郎翁にそつくりの丸い顔を、ぱつとあからめ、子供のやうにはにかんだ。
「ほんの、少しまへです。けさ早く警視庁へ電話したら、あなたたちの出ることを知らせて呉れたので、とにかく、ここへ来てみたわけです。したのをばさん心配してゐたぜ。留守に何度も何度も刑事が来て、この部屋を掻きまはしていつたさうだ。をばさんには、おれから、うまく言つて置きました。まあ、お坐りなさい。」さちよの顔を笑つてそつと見上げ、「よかつたね。よく、君は、無事で、――」涙ぐんでゐた。
さちよは、机の上に片手をつき、崩れるやうに坐つて、
「よくもないわ。煙草ないの? おやおや、あたし、あなたの顔を見ると、急に、煙草ほしくなるのね。」
「これは、ごあいさつだな。」助七は、それでも、恐悦であつた。
「僕は、しつれいしませう。」青年は、先刻から襖にかるく寄りかかり、つつ立つたままでゐた。
「さう?」さちよは、きよとんとした顔つきで青年を見上げ、煙草のけむりをふつと吐いた。
「御自重なさいね。僕は、責任をもつて、あなたを引き受けたのです。須々木さんのためにも、しつかりしてゐて下さい。僕は、乙やんを信じてゐるのだ。どんなことがあつたつて、僕は乙やんを支持する。ぢやあまた、そのうち、来ます。」
「どうも、けふは、ありがたう。」蓮葉な口調で言つて、顔を伏せ、そつと下唇を噛んだ。
青年を見送りに立たうともせず、顔を伏せたままで、じつとしてゐた。階段を降りて行く青年の足音が聞えなくなつてから、ふつと顔をあげて、
「助七。あたしは、おまへと一緒にゐる。どんなことがあつても離れない。」
「よせやい。」助七は、めづらしくきびしい顔つきで、さう言つた。「おれは、それはどばかぢやない。」つと立つて、青年のあとを追つた。
「君《きみ》、君。」新富座のまへで、やつと追ひついた。「話したいことがあるのだがねえ。」
青年は、振りかへつて、
「僕は、あなたを憎んでゐません。好きです。」
「まあ、さう言ふな。」にやにやして言つたのであるが、青年の、街路樹の下にすらと立つてゐる絵のやうに美しい姿を見て、流石にぐつと真面目になつた。いい男《をとこ》だなあ、と思つた。「すこし、君に、話したいことがあるのだけれど、なに、ちよつとでいいのです。つき合つて呉れませんか。おれだつて、――」言ひ澱んで、「君を好きです。」
三好野《みよしの》へはひつた。
「須々木乙彦、といふのは、あなたの親戚なんですつてね?」あなた、といつたり、君といつたり、助七は、秩序がなかつた。
「いとこですが。」青年は、熱い牛乳を啜つてゐた。朝から、何もたべてゐなかつた。
「どんな男です。」真剣だつた。
「僕の、僕たちの、――」青年は、どもつた。
「英雄ですか?」助七は、苦笑した。
「いいえ。愛人です。いのちの糧《かて》です。」
その言葉が、助七を撃つた。
「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋の響の言棄を、聞いたことがなかつた。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑ふことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。
「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の眼は、不眠のために充血してゐた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じてゐました。」
「おれだつて、いのちの糧《かて》を持つてゐる。」
低くさう言つて、へんに親しげに青年の顔をしげしげ眺めた。
「存じて居ります。」
「一言もない。おれは、もともと賎民さ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言ひかけてふつと口を噤み、それからぐつと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思ひますか?」
「気の毒な人だと思つてゐます。」用意してゐたのではないかと思はれるほど、涼しく答へた。
「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。奇妙な、何か、感じませんか?」
青年は、顔をあからめた。
「それごらん。」助七は、下唇を突き出し、にやと笑つた。「やつぱりさうだ。だけど、あなたは、まだいい。たつた一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。さうだ、あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣な血の中に在る。笑つて呉れ。おれは、あの
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