つて何も知らんのでせう?」
「知つてゐます。」
「おや?」
「おなくなりに、」言ひかけて涙が頬を走つた。
「そのことぢやないんです。」青年は厳粛に口をひきしめ、まつすぐを見つめた。「それも僕には、いや、あなたにだつて、おそろしい打撃なんだが、」煙草を捨てた。「そのことよりも、ほかに、――須々木さんは、ね、たいへんなことをやつたらしいんだ。あなたとのことも、まだ、新聞には、出てゐませんよ。記事差止といふやつらしいのです。あなたのことも、僕のことも、警察ぢや、ずいぶんくはしく調べてゐました。僕は、ひどいめにあつちやつた。それは、きびしく調べられました。あなただつて、あの二日まへにはじめて逢つただけなんださうだし、僕だつて、須々木さんとは親戚で、小さい時から一緒に遊んで、僕は、乙やんを好きだつたし、」ちよつと、とぎれた。突風のやうに嗚咽がこみあげて来たのを、あやふくこらへた。「やつと、僕たち、なんにも知らなかつたのだといふことが判つて、ひとまづ釈放といふところなのです。ひとまづ、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚悟をしてゐて下さいね。あなたは、からだも、まだ全快ぢやないのだし、僕が、責任を以て、あなたの身柄を引き受けました。」
「すみません。」ふたたび、消え入るやうにわびを言つた。
「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言つてゐるうちに、この一週間、自分の嘗《な》めて来た苦悩をまざまざと思ひ起し、流石に少し不気嫌になつて、「あなたは、これからどうします? 僕の下宿に行きますか? それとも、――」
 ふたりは、もう帝劇のまへまで来てゐた。
「入舟町へかへります。」入舟町の露路、髪結さんの二階の一室を、さちよは借りてゐた。
「は、さうですか。」青年は、事務的な口調で言つた。いよいよ不気嫌になつてゐた。「お送りしませう。」
 自動車を呼びとめ、ふたり乗つた。
「おひとりで居られるのですか。」
 さちよは答へなかつた。
 青年の、のんきな質問に、異様な屈辱を感じて、ぐつと別な涙が、くやし涙が、沸いて出て、それでも思ひ直して、かなしく微笑んだ。このひとは、なんにも知らないのだ。私たちが、どんなにみじめな、くるしい生活をしてゐるのか、このお坊ちやんには、なんにもわかつてゐないのだ。さう思つたら、微笑が、そのまま凍りついて、みるみる悪鬼の笑ひに変つていつた。

        ☆

 男は、何人でも、ゐます。さう答へてやりたかつた。おのれは醜いと恥ぢてゐるのに、人から美しいと言はれる女は、そいつは悲惨だ。風の音に、鶴唳に、おどかされおびやかされ、一生涯、滑稽な罪悪感と闘ひつづけて行かなければなるまい。高野さちよは、美貌でなかつた。けれども、男は、熱狂した。精神の女人を、宗教でさへある女人をも、肉体から制御し得る、といふ悪魔の囁きは、しばしば男を白痴にする。そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡の亭主について考へてみたり、ジヤンヌ・ダアクや一葉など、すべてを女体として扱ふ疲れ果てた好色が、一群の男たちの間に流行してゐた。そのやうな極北の情慾は、謂はばあの虚無ではないのか。しかもニヒルには、浅いも深いも無い。それは、きまつてゐる。浅いものである。さちよの周囲には、ずいぶんたくさんの男が蝟集した。その青白い油虫の円陣のまんなかにゐて、女ひとりが、何か一つの真昼の焔の実現を、愚直に夢見て生きてゐるといふことは、こいつは悲惨だ。
「あなたは、どうお思ひなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考へた末、そんなことを言つてみた。「あたしは、ひとり、ひとり、みんな違ふと思ふのだけれど。」
「心理ですか? 体質ですか?」わかい医学研究生は、学校の試験に応ずるやうな、あらたまつた顔つきで、さう反問した。
「いいえ。あたし、きざねえ。ちよつと、気取つてみたのよ。」すこしまへに泣いてゐたひととも思はれぬほど、かん高く笑つた。歯が氷のやうにかがやいて、美しかつた。
 その橋を越せば、入舟町である。
「寄つて行かない?」あたしは、バアの女給だ。
 部屋へはひると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて坐つてゐた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈に、ひひと笑つて、
「あなたも、おどろいたでせう? おれだつて、まさに、腰を抜かしちやつた。さちよ君《くん》はね、いつでも、こんなこと、平気でやらかすものだから、弱るです。社へ情報がはひつて、すぐ病院へ飛んでいつたら、この先生、ただ、わあわあ泣いてゐるんでせう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦つて、あれは、ただの鼠ぢやないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しちやつた。」
 憮然と部屋の
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