蔵、由緒正しき貴族である。俳優も、一流の名優が競つて参加し、外国の古典やら、また、日本の無名作家の戯曲をも、大胆に採用して、毎月一回一週間づつの公演を行ひ、日本の文化を、たしかに高めた。元老、鶴屋北水の推薦と、三木朝太郎の奔走のおかげで、さちよは、いきなり大役をふられた。すなはち、三人姉妹の長女、オリガである。いいかい、オリガは、センチメントおさへて、おさへて、おさへ切れなくなる迄おさへて、幕切れで、どつとせきあげる、それだけ心掛けて居ればいいのだ、あとは尾沼君の言ふこと信仰し給へ、あれは偉い男だ。それから、ほかの役者の邪魔をしないやうに、ね。三木は、それだけ言つて、あとは、何も教へなかつた。三木には、また、三木の仕事があるのである。二階の六畳に閉ぢこもつて、原稿用紙、少し書きかけては、くしやくしやに丸めて壁に投げつけ、寝ころんで煙草吸つたり、また起き上つて、こつこつ書いたり、毎夜、おそくまで、眠らずにゐる。何か大きい仕事にでも、とりかかつた様子である。さちよも、なまけてはゐなかつた。毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。
初日が、せまつた。三木は、こつそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行つた。帰つて来てからさちよに、君がうまいんぢやないんだ、他の役者が下手くそなんだ、尾沼君は、さう言つてゐた。君は、こんどの公演で、きつと評判になるだらう、けれども、それは、君がうまいからぢやないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれてゐるといふことなんだ、さう言つてゐた。いいかい、ちつとも君がすぐれてゐるわけぢやないんだから、かならず、人の讃辞なんか真《ま》に受けちやいけないよ。叱りつけるやうな語調で言つて聞かせて、それでも、その夜は、珍らしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん呑んだ。
初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であつた。三日目、つまづいた。青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧の演技に、小さい深い蹉跌を与へた。
高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちやうど一幕目がをはつて、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐つて、大口あいて笑つてゐた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこもり、誰か一こと言ひ出せば、どつと大勢のひとの笑ひの浪が起つて、和気あいあ
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