つて何も知らんのでせう?」
「知つてゐます。」
「おや?」
「おなくなりに、」言ひかけて涙が頬を走つた。
「そのことぢやないんです。」青年は厳粛に口をひきしめ、まつすぐを見つめた。「それも僕には、いや、あなたにだつて、おそろしい打撃なんだが、」煙草を捨てた。「そのことよりも、ほかに、――須々木さんは、ね、たいへんなことをやつたらしいんだ。あなたとのことも、まだ、新聞には、出てゐませんよ。記事差止といふやつらしいのです。あなたのことも、僕のことも、警察ぢや、ずいぶんくはしく調べてゐました。僕は、ひどいめにあつちやつた。それは、きびしく調べられました。あなただつて、あの二日まへにはじめて逢つただけなんださうだし、僕だつて、須々木さんとは親戚で、小さい時から一緒に遊んで、僕は、乙やんを好きだつたし、」ちよつと、とぎれた。突風のやうに嗚咽がこみあげて来たのを、あやふくこらへた。「やつと、僕たち、なんにも知らなかつたのだといふことが判つて、ひとまづ釈放といふところなのです。ひとまづ、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚悟をしてゐて下さいね。あなたは、からだも、まだ全快ぢやないのだし、僕が、責任を以て、あなたの身柄を引き受けました。」
「すみません。」ふたたび、消え入るやうにわびを言つた。
「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言つてゐるうちに、この一週間、自分の嘗《な》めて来た苦悩をまざまざと思ひ起し、流石に少し不気嫌になつて、「あなたは、これからどうします? 僕の下宿に行きますか? それとも、――」
ふたりは、もう帝劇のまへまで来てゐた。
「入舟町へかへります。」入舟町の露路、髪結さんの二階の一室を、さちよは借りてゐた。
「は、さうですか。」青年は、事務的な口調で言つた。いよいよ不気嫌になつてゐた。「お送りしませう。」
自動車を呼びとめ、ふたり乗つた。
「おひとりで居られるのですか。」
さちよは答へなかつた。
青年の、のんきな質問に、異様な屈辱を感じて、ぐつと別な涙が、くやし涙が、沸いて出て、それでも思ひ直して、かなしく微笑んだ。このひとは、なんにも知らないのだ。私たちが、どんなにみじめな、くるしい生活をしてゐるのか、このお坊ちやんには、なんにもわかつてゐないのだ。さう思つたら、微笑が、そのまま凍りつ
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