い部屋で寝ながら話した。
「さちよの伯父さんは、でも、いいひとだと思うよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だって、みんな、深い傷を背負って、そ知らぬふりして生きているのだ。いいなあ。なかなかわかった人じゃないか。あたしは、惚《ほ》れたね。」ねむそうな声でそう言って、数枝は、しずかに寝返りを打った。
「かえれっていうの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまって、心細げに反問した。
「まあね。」数枝は大人びた口調で言って、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もっとわるい。婦女|誘拐罪《ゆうかいざい》。咎人《とがにん》だよ、あれは。ろくなことを、しやしない。要らないことを、そそのかして、そうしてまたのこのこ、平気でここへ押しかけて来て、まるで恩人か何かのように、あの、きざな口のきき様《よう》ったら。どこまで、しょってるのか、判りゃしない。阿呆や。あの眼つきを、ごらんよ。どうしたって、ふつうじゃないからね。」
さちよは、くすくす笑った。
数枝も、こらえ切れず笑ってしまって、それでも、
「いやな奴さ。笑いごとじゃないよ。謂《い》わば、女性の敵だね。」
「でも、あたし、知ってるよ。数枝は、はじめから歴史的を好きだった。」
「こいつ。」
女ふたり、腹をおさえて、笑いころげた。
「かえらぬ昔さ。」てれ隠しに数枝は、わざと下手《へた》な言葉を言って、「どうも、なんだね、あたしたち、男運がわるいようだね。」
「いいえ、」ときどきさちよは、ふっと水のように冷い語調に澄まし帰ることがある。大笑いのあとにでも、あたりの雰囲気におかまいなしに、一瞬、もう静かな口調で、ものを言い出す。へんな癖である。「あたしは、そうは思わない。あたしは、どんな男の人でも、尊敬している。」
数枝は、流石《さすが》に気まずくなった。われにも無く、むりにしんみりした口調で、
「わかいからねえ。」言ってしまって、いよいよいけないと思った。どうにも、自分が、ぶざまである。閉口して、とうとうやけに、屹《き》っとなってしまって、「ばかなこと、お言いでないよ。ギャングだの、低脳記者だの、ろくなものありゃしない。さちよを、ちっとでも仕合せにして呉れた男が、ひとりだって、無いやないか。それを、尊敬しています、なんて、きざなこと。」
「それは、少しちがうね。」こんどは、さちよは、おどけた口調にかえって、「男にしなだれかかって仕合せにしてもらおうと思っているのが、そもそも間違いなんです。虫が、よすぎるわよ。男には、別に、男の仕事というものがあるのでございますから、その一生の事業を尊敬しなければいけません。わかりまして?」
数枝は、不愉快で、だまっていた。
さちよは調子に乗って、
「女ひとりの仕合せのために、男の人を利用するなんて、もったいないわ。女だって、弱いけれど、男は、もっと弱いのよ。やっとのところで踏みとどまって、どうにか努力をつづけているのよ。あたしには、そう思われて仕方がない。そんなところに、女のひとが、どさんと重い[#「重い」は底本では「思い」]からだを寄りかからせたら、どんな男の人だって、当惑するわ。気の毒よ。」
数枝は、呆れて、蛮声を発した。
「白虎隊は、ちがうね。」さちよの祖父が白虎隊のひとりだったことを数枝は、さちよから聞かされて知っていた。
「そんなんじゃないのよ。」さちよは、暗闇の中で、とてもやさしく微笑《ほほえ》んだ。「あたし、巴御前《ともえごぜん》じゃない。薙刀《なぎなた》もって奮戦するなんて、いやなこった。」
「似合うよ。」
「だめ。あたし、ちびだから、薙刀に負けちゃう。」
ふふ、と数枝は笑った。数枝の気嫌が直ったらしいので、さちよは嬉しく、
「ねえ。あたしの言うこと、もすこしだまって聞いていて呉《く》れない? ご参考までに。」
「いうことが、いちいち、きざだな。歴史的氏の悪影響です。」数枝は、気をよくしていた。
「あたしは、ね、歴史的さんでも、助七でも、それから、ほかのひとでも、みんな好きよ。わるい人なんて、あたしは、見たことがない。お母さんでも、お父さんでも、みんな、やさしくいいひとだった。伯父さんでも、伯母さんでも、ずいぶん偉いわ。とても、頭があがらない。はじめから、そうなのよ。あたし、ひとりが、劣っているの。そんなに生れつき劣っている子が、みんなに温く愛されて、ひとり、幸福にふとっているなんて、あたし、もうそんなだったら、死んだほうがいい。あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立って、死にたい。男のひとに、立派なよそおいをさせて、行く路々に薔薇の花を、いいえ、すみれくらいの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいに敷いてやって、その上を堂々と歩かせてみたい。そうして、その男のひとは、それをちっとも恩に着ない。これは、はじめからこうなんだと、のんきに平気で、行き逢う人、行き逢う人にのんびり挨拶をかえしながら澄まして歩いていると、まあ、男は、どんなに立派だろう。どんなに、きれいだろう。それを、あたしは、ものかげにかくれて、誰にも知られずに、そっとおがんで、うれしいだろうなあ。女の、一ばん深いよろこびというものは、そんなところにあるのではないのかしら。そう思われて仕方がない。」
「わるくないね。」数枝も、耳を傾けた。「参考になる。」
さちよは、一息《ひといき》ついて、
「それを、男ったら、ひとがいいのねえ。だれもかれも、みんな、お坊ちゃんよ。お金と、肉体だけが、女のよろこびだと、どこから聞いて来たのか、ひとりできめてしまって、おかげで自分が、ずいぶんあくせく無理をして、女のほうでは、男のそんなひとりぎめを、ぶちこわすのが気の毒で、いじらしさに負けてしまうのね。だまって虚栄と、肉体の本能と二つだけのような顔をしてあげてやっているのに、そうすると、いよいよ男は悟り顔してそれにきめてしまうもんだから、すこし、おかしいわ。女のひとは、誰でも、男のひとを尊敬しているし、なにかしてあげたいと一心に思いつめているのに、ちっともそんなことに気がつかないで、ただ、あなたを幸福にできるとか、できないとか言っては、お金持ちのふりをしたり、それから、――おかしいわ、自信たっぷりで、へんなことするんだもの。女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教えたのかしら。自然に愛情が、それを求めたら、それに従えばいいのだし、それを急に、顔いろを変えたり、色んなどぎつい芝居をして、ばかばかしい。女は肉体のことなんか、そんなに重要に思っていないわ。ねえ、数枝なんかだって、そうなんだろう? いくらひとりでお金をためたって、男と遊んだって、いつでも淋しそうじゃないか。あたし、男のひと皆に教えてやりたい。女にほんとうに好かれたいなら、ほんとうに女を愛しているなら、ほんの身のまわりのことでもいいから、何か用事を言いつけて下さい。権威を以て、お言いつけ下さい、って。地位や名聞を得なくたって、お金持ちにならなくたって、男そのものが、立派に尊いのだから、ありのままの御身に、その身ひとつに、ちゃんと自信を持っていてくれれば、女は、どんなにうれしいか。お互い、ちょっとの思いちがいで、男も女も、ずいぶん狂ってしまったのね。歯がゆくって、仕方がない。お互い、それに気がついて、笑い合ってやり直せば、――幸福なんだがなあ。世の中は、きっと住みよくなるだろうに。」
「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦は、よかったのかね。」
数枝の無礼を、気にもかけず、
「あのひと、ね、おかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房って、おふくろにだけあるものだと思っていた、というのよ。それが、ちっとも、気取りでも、なんでもないの。恥ずかしそうにしていたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思ったら、あたし、うれしいやら、有難いやら、可愛いやら、胸が一ぱいになって、泣いちゃった。一生、この人のお傍にいよう、と思った。永遠の母親、っていうのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になってしまって、あのひと、いい人だったな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちっとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだって、もののお役に立つことができる。人の心の奥底を、ほんとうに深く温めてあげることができると、そう思ったら、もう、そのよろこびのままで、死にたかった。でも、こんなに、まるまるとふとって生きかえって来て、醜態ね。生きかえって、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声で叫び出したく思うことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立ってあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらえる。」そっと頭をもたげて、「ねえ、数枝。聞いているの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとじゃないと思うわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気込んでいるんだけれど、どんなものだろうねえ、数枝だって、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候《いそうろう》していたら、やっぱり、気持が重いでしょう? また、あたしが女優になって、歴史的さんがそれで張り合いのあるお仕事できるようなら、あたし、女優になっても、いいと思うの。あたしがその気になりさえすれば、あとは、手筈《てはず》が、ちゃんときまっているんだって、そう言っていたわ。」
「おまえの好きなようにするさ。名女優になれるだろうよ。」数枝は、ふたたび不気嫌である。「それは、ね、あたしだって、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにいて、いったいどうするつもりだろうと、さちよの図々しさが憎くなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分《さんぷん》以上かんがえないことに、昔からきめているの。めんどうくさい。どんなに永く考えたって、結局は、なんのこともない。あたってみなければ判らないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだって、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考えて、解決も何もおかまいなしに、すぐつぎに移って、そいつを三分間だけ考えて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目《ひとめ》調べてみて、すぐにぴたっとしめて、そうして、眠るの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだって、相当の哲学があるだろう。」
「ありがとう。数枝。あなたは、いいひとね。」
数枝は、てれて、わざと他のことを言った。
「やんだね、みぞれが。」
「ええ。」さちよは、言いたいだけ言って、あとは無心であった。「あした、お天気だといいわね。」
「うん。眼がさめてみると、からっと晴れているのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、そう合槌《あいづち》うって、朝の青空を思えば、やはり浮き浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんということもないのに、とひとりで笑いたくなって、蒲団を引きかぶり、眼尻から涙が、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いているのかしら、と流石《さすが》にあわて、とにかく、この子が女優になるというし、これは、ひとつ、後援会でも組織せずばなるまい。
☆
成功であった。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であった。青年、高須隆哉は、三日目に見に行った。幕があく。オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にいる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかった。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
――あの日、寒かったわね。雪が降
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