夢だ。須々木乙彦ほどの男でも、それができずに、死んだのだ。いまは人間、誰にもめいわくかけずに、自分ひとりを制御することだけでも、それだけでも、大事業なんだ。それだけでも、できたら、そいつは新しい英雄だ。立派なものだ。ほんとうの自信というものは、自分ひとりの明確な社会的な責任感ができて、はじめて生れて来るものじゃないのか。まず自分を、自分の周囲を、不安ないように育成して、自分の小さいふるさとの、自分のまずしい身内《みうち》の、堅実な一兵卒になって、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。賭けてもいい。高野幸代は、失敗する。いまのままですすめば、どん底に蹴落される。火を見るよりも、明らかだ。世の中は、つらいのだ。きびしいのだ。一日、一日、僕には、いまのこの世の中の苛烈《かれつ》が、身にしみる。みじんも、でたらめを許さない。お互い、鵜《う》の目、鷹《たか》の目だ。いやなことだ。いやなことだが、仕方がない。」
「負けたのよ。あなたは、負けたのよ。」かん高く叫んで、多少、呂律《ろれつ》がまわらなかった。よろめいて、耳をふさぎ、「ああ、聞きたくない、聞きたくない。あなたまで、そんな、情ないことおっしゃる。ずるい、ずるい。意気地がない。臆病だ。負け惜しみだ。ああ、もう、理屈は、いやいや。世の中の人たちは、みんな優しい。みんな手助けして呉れる。冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、嘘ついて気取っている男だけが、ひとのせっかくの努力を、せせら笑って蹴落すのだ。あなたは、いけない。あなたは、これから、さちよに触《さわ》っては、いけない。一指もふれては、いけない。なんて、嘘なのよ。あたしは、とてもリアリスト。知っているのよ。あなたの言うこと、わかっているのよ。知っていながら、それでも、もしや、という夢、持ちたいの。持っていたいの。笑わないでね。あたしたち、永遠にだめなの。わるくなって行くだけなの。知っている。ああ、いけない、はっきりきめないで、ね。死にたくなっちゃう。だけど、さちよだけは、ああ、偉くしたい、偉くしたい。あの子、頭がいい。あの子、可愛い。あの子、ふびんだ。知っている? さちよは、いま、ある劇作家のおめかけよ。偉くなれ、なれ。おめかけなんて、しなくてすむように、――」
青年は、立ちあがっていた。
「誰です。どこの人です。案内し給え。」さっさと勘定すまして、酔いどれた数枝のからだを、片腕でぐいと抱きあげ、「立ち給え。いずれ、そんなことだろうと思っていた。たいへんな出世だ。さ、案内し給え。どこの男だ。さちよにそんなことさせちゃ、いけないのだ。」
円タクひろった。淀橋に走らせた。
自動車の中で、
「ばかだ。ばかも、ばかも、大ばかだ。君には、お礼を言う。よく知らせて呉れた。」数枝は、不吉な予感に、気が遠くなりそうだった。「僕は、さちよを愛している。愛して、愛して、愛している。誰よりも高く愛している。忘れたことが、なかった。あのひとの苦しさは、僕が一ばん知っている。なにもかも知っている。あのひとは、いいひとだ。あのひとを腐らせては、いけない。ばかだ、ばかだ。ひとのめかけになるなんて。ばかだ。死ね! 僕が殺してやる。」
[#地から2字上げ]「火の鳥未完」
底本:「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年9月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:高橋美奈子
2000年1月26日公開
2004年3月4日修正
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