知らなかった。
しずかに酔って、
「かえらせたら、いいのだ。女優なんて、そんな派手なことさせちゃ、いけないのだ。国へかえらせなければ、いけないのだ。」
「でも、――」言い澱《よど》んで、「いいえ、酔って絡《から》むわけじゃないのよ。ごめんなさいね。でも、――男の人って、どうして皆そんなに、女のこととなると変に責任、持ちたがるのかしら。どうして皆、わかり切ったお説教したがるのかしら。あなたは、さちよが、いままで、どんなに苦しい生活を、くぐり抜け、切り抜けして生きて来たか、ご存じ? さちよだって、もう、おとなよ。子供じゃない。ほって置いたって大丈夫。あたしだって、はじめは、あの子に腹が立った。女優なんて、とんでもない、と思っていた。やはり、あなたと同じように、国へかえったほうが、一ばん無事だと思っていた。だけど、それは、あたしの間違い。だって、さちよが国へかえって、都合のよいのは、それは、あたしたちのほうよ。あの子は、ちっとも仕合せでない。あなただってそうよ。やっぱり、どこか、ずるいのよ。けちな、けちな、我利我利《がりがり》が、気持のどこかに、ちゃんと在るのよ。あなたが勝手に責任感じて、そうして、むしゃくしゃして、お苦しくて、こんどは誰か、遠いところに居る人に、その責任、肩がわりさせて、自身すずしい顔したいお心なのよ。そうなのよ。」言いながら、それでも気弱く、高須の片手をそっと握って、顔色をうかがい、「ごめんなさいね。うち、失礼なことばかり言って。」さっと素早く、ウイスキイあおって、「でも、ねえ。あの子を、いま田舎へかえすなんて、やっぱり、残酷よ。よく、そんなこと、言えるのね。あの子を国へかえしちゃいけない。あなたは、あの子が、去年どんなことをしたか知ってるわね。どんなに笑われたか、知っているわね。東京は、いそがしくて、もう、そんなこと忘れたような顔していて呉れるけど、田舎は、うるさい。あの子は、きっと座敷牢よ。一生涯、村の笑われもの。田舎の人ったら、三代まえに鶏ぬすまれたことだって、ちゃんと忘れずに覚えていて、にくしみ合っているんだもの。」
「ちがう。」高須は、落ちついて否定した。「ふるさとは、そんなものじゃない。肉親は、そんなものじゃない。僕は、ふるさとを失った人の悲劇を知っている。乙やんには、ふるさとが無かった。君も、ごぞんじだろうと思うが、乙やんは、僕の伯父の、おめかけの子だ。生みの母親と一緒に転々した。それは苦労した。僕は知っている。あの人は、偉くなることに努めた。自分を捨てた父親を、見かえしてやろうと思っていた。ずば抜けて、秀才だった。全く、すばらしかったなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思っていたのだ。歴史に名を残そうと考えた。けれども、矢尽き、刀折れて、死ぬる前の日、僕に、親孝行しろ、と言った。しのんで、しのんで、つつましく生きろ、と言った。僕は、はじめ冗談か、と思った。けれども、このごろになって、あ、あ、と少しずつ合点できる。」
「いいえ、そんなんじゃない。」数枝は、なかなか譲らない。酔いと興奮に頬を染めて、「あなたは、それでいいの。ご立派な御家庭に、なに不自由なくお育ちになって、立派に学問もおありなさることだし、ちゃんと御両親もそろっておいでのことでしょうし、それは須々木乙彦でなくったって、あなたには、親孝行なさるよう、お家を大事になさるよう、誰だって、しんからそれをおすすめするわ。だけど、あたしたちは、ちがうの。そんなんじゃない。一日一日、食って生きてゆくことに追われて、借銭かえすことに追われて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついていながら、どんどん押し流されてしまって、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印《やきいん》、頂戴してしまっているの。さちよなんか、もっとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しちゃったのよ。屑《くず》よ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなってしまったの。したくても、ゆるされない。名誉恢復。そんな言葉おかしい? あわれな言葉ね。だけど、あたしたち、いちど、あやまち犯した人たち、どんなに、それに憧《あこ》がれているか。そのためには、いのちも要らない。どんなことでも、する。」ふっと声を落して、「さちよは、可愛そうに、いま一生懸命なのよ。あたしには、わかる。あの子を少しでも偉くしてあげたい。」
「待て。」青年は、その言葉を待ちかまえていた。ゆっくり、煙草に火を点じて、「君は、いま、あの子を偉くしてあげたい、と言ったね。それは、間違い、書取《デクテーション》のミステークみたいに、はっきり、間違い。人は、人を偉くすることができない。いまの、この世の中は、きびしいのだ。一朝にして名誉恢復、万人の喝采なんて、そいつは、無智なロマンチシズムだ。昔の
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