ん。十時に――
と、書きかけて、そのままになっていた。
高須は顔を蒼《あお》くして、少し笑い、紙片を二つに裂いた。
「見せろ。あいびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はっきりした語調で言って、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代という役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言うもんじゃないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いや味《み》だぜ。さちよも、一生懸命に書いたんだろう? 逢ってやれよ。よろこぶぜ。」
助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめて見る楽屋。
☆
高野さちよは、そのひとつきほどまえ、三木と同棲をはじめていた。数枝いいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言えない、鴎《かもめ》は、あれは、唖《おし》の鳥です、とやや錯乱に似た言葉を書き残して、八重田数枝のアパアトから姿を消した。淀橋の三木の家を訪れたのは、その日の夜、八時頃である。三木は不在であったが、小さく太った老母がいた。家賃三十円くらいの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言うと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承って居ります、何やら、会があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りましょう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆であった。さちよは、張りつめていた気もゆるんで、まるで、わが家に帰ったよう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさっさとはいって、あたかも、これは生きかえった金魚、ひらひら真紅のコオトを脱いで、
「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀して、どうにも甘えた気持になり、両手そろえてお辞儀しながら、ぷっと噴き出す仕末であった。
老母は、平気で、
「はい、こんばんは。朝太郎、お世話になります。」と挨拶かえして、これものんきな笑顔である。
不思議な蘇生《そせい》の場面であった。
長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗に、ちんまり坐って、伏目がち、やがて物語ることには、――あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まえに死にました。まあ、昔自慢してあわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます、前橋でも一流中の一流の割烹《かっぽう》店でございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまっていました。あのころは、よかった。わたくしも、毎日毎日、張り合いあって、身を粉にして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。崩れるとなったら、早いものでした。ふっと気のついた朝には、すっからかん。きれい、さっぱり、可笑《おか》しいようですよ。父は、みんなに面目ないのですね。そうなっても、まだ見栄張っていて、なあに、おれには、内緒でかくしている山がある。金《きん》の出る山ひとつ持っている、とまるで、子供みたいな、とんでもない嘘を言い出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れ添うて来た婆にまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくわしく細々とその金の山のこと真顔になって教えるのです。嘘とわかっているだけに、聞いているほうが、情ないやら、あさましいやら、いじらしいやら、涙が出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いていないのに感附いて、いよいよ、むきになって、こまかく、ほんとうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命にひそひそ説明して、とうとう、これから皆でその山に行こうではないか、とまで言い出し、これには、わたくし、当惑してしまいました。まちの誰かれ見さかいなくつかまえて来ては、その金山のこと言って、わたくしは恥ずかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑い草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはいったばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困って、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやってしまいました。そのときに、朝太郎は偉かった。すぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら、なぜ僕にいままで隠していたのです、そんないい事あるんだったら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、
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