呂から出て、高野さちよは、健康な、小麦色の頬をしていた。乙彦は、どこかに電話をかけた。すぐ来い、という電話であった。
やがて、ドアが勢よくあき、花のように、ぱっと部屋を明るくするような笑顔をもって背広服着た青年が、あらわれた。
「乙《おと》やん、ばかだなあ。」さちよを見て、「こんちは。」
「あれは、」
「あ。持って来ました。」黒い箱を、うちポケットから出して、「みなのむと、死にますよ。」
「眠れないので、ね。」乙彦は、醜く笑った。
「もっと、いい薬も、あるんですけど。」
「きょうは、休め。」青年は、或る大学の医学部の研究室に、つとめていた。「遊ばないか。」
青年は、さちよと顔を見合せて、笑った。
「どうせ、休んで来たんです。」
三人で、ホテルを出て、自動車を拾い、浅草。レヴュウを見た。乙彦は、少し離れて坐っていた。
「ねえ、」さちよは、青年に囁《ささや》く。「あのひと、いつでも、あんなに無口なの?」
青年は、快活に笑った。「いや、きょうは特別のようです。」
「でも、あたし、好きよ。」
青年は、頬をあからめた。
「小説家?」
「いや。」
「画家?」
「いや。」
「そう。」さちよは、何かひとりでうなずいた。赤い襟巻を掻《か》き合せて、顎《あご》をうずめた。
レヴュウを見て、それから、外を歩いて、三人、とりやへはいった。静かな座敷で、卓をかこみ、お酒をのんだ。三人、血をわけたきょうだいのようであった。
「しばらく旅行に出るからね、」乙彦は、青年を相手に、さちよが、おや、と思ったほどやさしい口調で言っていた。「もう、僕に甘えちゃ、いけないよ。君は、出世しなければいけない男だ。親孝行は、それだけで、生きることの立派な目的になる。人間なんて、そんなにたくさん、あれもこれも、できるものじゃないのだ。しのんで、しのんで、つつましくやってさえ行けば、渡る世間に鬼はない。それは、信じなければ、いけないよ。」
「きょうは、また、」青年は、美しい顔に泣きべその表情を浮べて、「へんですね。」
「ううん。」乙彦も、幼くかぶりを横に振って、「それでいいのだ。僕の真似なんかしちゃ、いけないよ。君は、君自身の誇りを、もっと高く持っていていい人だ。それに価する人だ。」
十九のさちよは、うやうやしく青年のさかずきに、なみなみと酒をついだ。
「じゃ出よう。これで、おわかれだ。」
その料亭のまえで、わかれた。青年はズボンに両手をつっ込み、秋風の中に淋《さび》しそうに立って二人を見送っていた。
ふたり切りになると、
「あなた、死ぬのね。」
「わかるか。」乙彦は、幽《かす》かに笑った。
「ええ。あたしは、不幸ね。」やっと見つけたと思ったら、もうこの人は、この世のものでは、なかった。
「あたし、くだらないこと言ってもいい?」
「なんだ。」
「生きていて呉れない? あたし、なんでもするわ。どんな苦しいことでも、こらえる。」
「だめなんだ。」
「そう。」このひとと一緒に死のう。あたしは、一夜、幸福を見たのだ。「あたし、つまらないこと言ったわね。軽蔑する?」
「尊敬する。」ゆっくり答えて、乙彦の眼に、涙が光った。
その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソファに並んで坐ったまま、冷くなっていた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察していたのである。落ちついて、その部屋から忍び出て、そっと支配人をゆり起した。すべて、静粛に行われた。ホテル全体は、朝までひっそり眠っていた。須々木乙彦は、完全に、こと切れていた。
女は、生きた。
☆
高野さちよは、奥羽の山の中に生れた。祖先の、よい血が流れていた。曾祖父は、医者であった。祖父は、白虎隊のひとりで、若くして死んだ。その妹が家督《かとく》を継いだ。さちよの母である。気品高い、無表情の女であった。養子をむかえた。女学校の図画の先生であった。峠を越えて八里はなれた隣りのまちの、造り酒屋の次男であった。からだも、心も、弱い人であった。高野の家には、土地が少しあった。女学校の先生をやめても、生活が、できた。犬を連れ、鉄砲をしょって、山を歩きまわった。いい画をかきたい。いい画家になりたい。その渇望が胸の裏を焼きこがして、けれども、弱気に、だまっていた。
高野さちよは、山の霧と木霊《こだま》の中で、大きくなった。谷間の霧の底を歩いてみることが好きであった。深海の底というものは、きっとこんなであろう、と思った。さちよが、小学校を卒業したとしに、父は、ふたたび隣りのまちの女学校に復職した。さちよの学費を得るためであった。さちよは、父のつとめているその女学校に受験して合格した。はじめ、父とふたり、父の実家に寄宿して、毎朝一緒に登校していたのであるが、それでは教育者として、ていさいが悪
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