したり、食事の手伝いをしてやったり、毎日そんなことで日を送っていた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかった。流石《さすが》に、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であった。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所を捜し当て、にやにやしながら、どうだい、女優になってみないか、などと言うのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑って相手にしなかった。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄っては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲集を一冊二冊と置いていった。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合い、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シャツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭って、宙に一廻転しているところであった。さちよは、ひとりで大笑いした。見ていると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたわむれているようで、期待していた決闘の凛烈《りんれつ》さは、少しもなかった。二人の男も、なんだか笑いながらしているようで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひっくりかえり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになって、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑《ほととぎす》に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走って三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしゃと三木の頬をぶった。
三木は、ふりかえって、
「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがって、さっさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛しているのか。」
さちよは、烈《はげ》しく首を振った。
「それじゃ、そんな、おセンチな正義感は、よしたまえ。いいかい。憐憫《れんびん》と愛情とは、ちがうものだ。理解と愛情とは、ちがうものだ。」言いながら、身なりを調い、いつもの、ちょっと気取った歴史的さんにかえって、「さあ、帰ろう。君は、君の好ききらいに、もっとわがままであって、いいんだぜ。きらいな奴は、これは、だめさ。どんなに、つき合ったって、好きになれるものじゃない。」
助七は、仰向に寝ころんだまま、両手で顔を覆い、異様に唸《うな》って泣いてた。
三木の二重まわしの中にかくれるようにぴったり寄り添い、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎょっとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れた柳の絵模様の青い蛇の目傘を、焚火《たきび》がわりに、ぼうぼう燃やしてあたっていた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はっきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されているような思いであった。
本編には、女優高野幸代の女優としての生涯を記す。
高野さちよを野薔薇《のばら》としたら、八重田数枝は、あざみである。大阪の生れで、もともと貧しい育ちの娘であった。お菓子屋をしている老父母は健在である。多くの弟妹があって、数枝はその長女である。小学校を出たきりで、そのうちに十九歳、問屋からしばしばやって来るお菓子職人と遊んで、ふたり一緒に東京へ出て来た。父母も、はんぶんは黙許のかたちであった。お菓子職人、二十三歳。上京して、早速、銀座のベエカリイに雇われた。薄給である。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり上品でないバアである。少しずつ離れて、たちまち加速度を以て、離れてしまった。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡な女給である。人生は、こんなものだ。ひとは、たよりにならない。幼いころから、そう教えられ、そうして、そのとおりに思いこんでいた。二十四になって銀座のバアをよして、踊子になった。このほうが、いくらか余計お金がとれるからである。そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒《さ》ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめていた高野さちよが、しょんぼり枕もとに坐っていた。
「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝ている数枝の顔をぴたとはさんだ。
数枝には、何もかもわかった。
「ばかなことばかりして。」そう言いながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかったようにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
さちよも、いそいそ襟巻《えりまき》をはずして、
「あたし買って来よう。数枝は、つくだ煮だったね。海老《えび》のつくだ煮買って来てあげる。」
出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねって、ごはんの鍋《なべ》をのせ、ふたたび蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。
そうして、その日から、さちよの寄棲《きせい》生活がはじまった。年の瀬、お正月、これといういいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まっくら
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