にいる。知らない。嘘つけ、貴様がかくした。よせやい、見っともねえぞ、意馬心猿。それから、よし、腕ずくでも取る、戸山が原へ来い、片輪にしてやる、ということになったのである。三木も、蒼ざめて承知した。元旦、正午を約して、ゆうべはわかれた。
「さちよの居どころは、僕は、知っている。」三木は、落ちつきを見せるためか、煙草をとりだし、マッチをすった。雪の原を撫でて来るそよ風が、二度も三度もマッチの焔《ほのお》を吹き消し、やっと煙草に火をつけて、「だけど、僕とは、なんでも無い。あのひとは、いま、一生懸命、勉強している。学問している。僕は、それは、あのひとのために、いいことだと思っている。あのひとに在るのは、氾濫《はんらん》している感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕は、やっぱり教養が、必要だと思う。叡智《えいち》が必要だと思う。山中の湖水のように冷く曇りない一点の叡智が必要だと思う。あのひとには、それがないから、いつも行為がめちゃめちゃだ。たとえば、君のような男にみこまれて、それで身動きができずに、――」
「恥ずかしくないかね。」助七は、せせら笑った。「けさから考えに考えて暗記して来たような、せりふを言うなよ。学問? 教養? 恥ずかしくないかね。」
 三木は、どきっとした。われにもあらず、頬がほてった。こいつ、なんでも知っている。「不愉快な野郎だ。よし、相手になってやる。僕は、君みたいな奴は、感覚的に憎悪する。宿命的に反撥する。しかし、最後に聞くが、君は、さちよを、どうするつもりだ。」煙草の火は消えていた。消えているその煙草を、すぱすぱ吸って、指はぶるぶる震えていた。
「どうするも、こうするも無いよ。」こんどは、助七のほうが、かえって落ちついた。「いまに居どころをつきとめて、おれは、おれの仕方《しかた》で大事にするんだ。いいかい。あの女は、おれでなければ、だめなんだ。おれひとりだけが知っている。おめえは山の宿で、たった一晩、それだけを手がら顔に、きゃあきゃあ言っていやがる。あとは、もう、おめえなんかに鼻もひっかけないだろう。あいつは、そんな女だ。」
 三木は思わず首肯《うなず》いた。まさに、そのとおりだったのである。
「だが、おい。」助七は、さらに勢よく一歩踏み出し、「その一晩だって、おめえには、ゆるさぬ。がまんできない。よくも、よくも。」
「そうか、わかった。相手になる。僕も君には、がまんできない。よくよく思いあがった野郎だ。」煙草をぽんとほうって、二重まわしを脱ぎ、さらに羽織を脱ぎ、ちょっと思案してから兵古帯《へこおび》をぐるぐるほどき、着物まですっぽり脱いで、シャツと猿又《さるまた》だけの姿になり、
「女を肉体でしか考えることができないとは、気の毒なものさ。こちらにまで、その薄汚さの臭いが移ら。君なんかと取組んで着物をよごしたら、洗っても洗ってもしみがとれまい。やっかいなことだ。」言いながら、足袋《たび》を脱ぎ、高足駄《たかあしだ》を脱ぎ捨て、さいごに眼鏡をはずし、「来い!」
 ぴしゃあんと雪の原、木霊《こだま》して、右の頬を殴られたのは、助七であった。間髪《かんはつ》を入れず、ぴしゃあんと、ふたたび、こんどは左。助七は、よろめいた。意外の強襲であった。うむ、とふんばって、腰を落し、両腕をひろげて身構えた。取組めば、こっちのものだと、助七にはまだ、自信があった。
「なんだい、それあ。田舎の草角力《くさずもう》じゃねえんだぞ。」三木は、そう言い、雪を蹴ってぱっと助七の左腹にまわり、ぐゎんと一突き助七の顎に当てた。けれども、それは失敗であった。助七は三木のそのこぶしを素早くつかまえ、とっさに背負投、あざやかにきまった。三木の軽いからだは、雪空に一回転して、どさんと落下した。
「ちきしょう。味なことを。」三木は、尻餅《しりもち》つきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。
「うっ。」助七は、下腹をおさえた。
 三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間《みけん》をめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひっくりかえり、しばらく、うごこうともしなかった。鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫《は》れあがる。
 はるか遠く、楢《なら》の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるように長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしっかり抱きしめながら、この光景をこわごわ見ている女は、さちよである。
 さちよは、あの翌《あく》る日に出京して、そうして別段、勉強も、学問も、しなかった。もと銀座の同じバアにつとめていて、いまは神田のダンスホオルで働いている友人がひとり在って、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯を
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