一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも、堪えて、そ知らぬふりして生きているのではないのか。おれは、そう思う。まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治そうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰って、みなに報告しなければいけない。悪いようには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買いたいものが、あるなら、宿へそう言うがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」
さちよは、ひとり残された。提燈《ちょうちん》をもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々《とうとう》と流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきに浮んだ。疲れていた。ひっそり湯槽《ゆぶね》にひたっていると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞《かす》んでいって、白痴のようにぽかんとするのだ。なんだか、恥ずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、こんなにうっとりしているということは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うっとりしていたって、いいではないか。水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震えていた。
このまま溶けてしまいたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持って石の段々をひとつ、ひとつ、のぼって部屋へかえるのだ。宿は、かなり大きかった。まっ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子《しょうじ》が、ぼっと明るく、その部屋部屋にだけは、客のいることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすっとあいて、
「さっちゃん。」
「どなた?」おどろく力も失っていた。
「ああ、やっぱりそうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「そうさ。よく覚えているね。ま、はいりたまえ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなっているけれども、派手な仕事をしていた。劇作家である。多少、名前も知られていた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言うのがかれの酔っぱらったときの口癖であって、銀座のバアの女
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