人は、その面《めん》のような端正の顔に、ちらとあいそ笑いを浮べて、お辞儀をした。
そのまま、乙彦は外へ出た。ステッキを振って日比谷のほうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かった。はき馴れぬフェルト草履《ぞうり》で、歩きにくいように見えた。日比谷。すきやばし。尾張町。
こんどはステッキをずるずる引きずって、銀座を歩いた。何も見なかった。ぼんやり水平線を見ているような眼差《まなざし》で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらわれたように、よろめき、資生堂へはいった。資生堂のなかには、もう灯がともっていて、ほの温かった。熱いコーヒーを、ゆっくりのんだ。サンドイッチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
日が暮れた。
こんどはステッキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄った。
「いらっしゃい。」
隅のソファに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆ったが、はっと気を取り直して顔をしゃんと挙げ、
「ウイスキイ。」と低く呟《つぶや》くように言って、すこし笑った。
「ウイスキイは、」
「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」
六杯、続け様《ざま》に、のんだ。
「おつよいのね。」
女が、両側に坐っていた。
「そうか。」
乙彦は、少し蒼《あお》くなって、そうして、なんにも言わなかった。
女たちは、手持ちぶさたの様子であった。
「かえる。いくらだ。」
「待って。」左手に坐っていた断髪の女が、乙彦の膝《ひざ》を軽くおさえた。「困ったわね。雨が降ってるのよ。」
「雨。」
「ええ。」
逢ったばかりの、あかの他人の男女が、一切の警戒と含羞《がんしゅう》とポオズを飛び越え、ぼんやり話を交している不思議な瞬間が、この世に、在る。
「いやねえ。あたし、この半襟《はんえり》かけてお店に出ると、きっと雨が降るのよ。」
ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸の芒《すすき》が、雁《かり》の列のように刺繍《ししゅう》されてある古めかしい半襟であった。
「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがえって来ていた。
「ええ。お草履じゃ、たいへんでしょう。」
「よし。のもう。」
その夜は、ふたり、帝国ホテルに泊った。朝、中年の給仕人が、そっと部屋へはいって来て、ぴくっと立ちどまり、それから、おだやかに微笑した。
乙彦も、微笑して、
「バスは、」
「ご随意に。」
風
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