緯で、私の家にもラジオというものが、そなわったけれども、私は相かわらず、あちこち、あちこちなので、しみじみ聴取した事は、ほとんど無いのである。たまに私の作品が放送せられる時でも、私は、うっかり聞きのがす。
つまり、一言にしていえば、私はラジオに期待していなかったのである。
ところが先日、病気で寝ながら、ラジオの所謂「番組」の、はじめから終りまで、ほとんど全部を聞いてみた。聞いてみると、これもやはりアメリカの人たちの指導のおかげか、戦前、戦時中のあの野暮ったさは幾分消えて、なんと、なかなか賑《にぎ》やかなもので、突如として教会の鐘のごときものが鳴り出したり、琴の音が響いて来たり、また間断無く外国古典名曲のレコード、どうにもいろいろと工夫に富み、聴き手を飽かせまいという親切心から、幕間というものが一刻も無く、うっかり聞いているうちに昼になり、夜になり、一ページの読書も出来ないという仕掛けになっているのである。そうして、夜の八時だか九時だかに、私は妙なものを聴取した。
街頭録音というものである。所謂政府の役人と、所謂民衆とが街頭に於いて互いに意見を述べ合うという趣向である。
所謂民衆たちは、ほとんど怒っているような口調で、れいの官僚に食ってかかる。すると、官僚は、妙な笑い声を交えながら、実に幼稚な観念語(たとえば、研究中、ごもっともながらそこを何とか、日本再建、官も民も力を合せ、それはよく心掛けているつもり、民主々義の世の中、まさかそんな極端な、ですから政府は皆さんの御助力を願って、云々《うんぬん》)そんな事ばかり言っている。つまり、その官僚は、はじめから終りまで一言も何も言っていないのと同じであった。所謂民衆たちは、いよいよ怒り、舌鋒《ぜっぽう》するどく、その役人に迫る。役人は、ますますさかんに、れいのいやらしい笑いを発して、厚顔無恥の阿呆《あほ》らしい一般概論をクソていねいに繰りかえすばかり。民衆のひとりは、とうとう泣き声になって、役人につめ寄る。
寝床の中でそれを聞き、とうとう私も逆上した。もし私が、あの場に居合せたなら、そうして司会者から意見を求められたなら、きっとこう叫ぶ。
「私は税金を、おさめないつもりでいます。私は借金で暮しているのです。私は酒も飲みます。煙草も吸います。いずれも高い税金がついて、そのために私の借金は多くなるばかりなのです。この上ま
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