端に倹約|吝嗇《りんしょく》の私にとって、受信機購入など、とんでも無い大乱費だったのである。それなのに、昨年の秋、私がれいに依ってよそで二、三夜飲みつづけ、夕方、家は無事かと胸がドキドキして歩けないくらいの不安と恐怖とたたかいながら、やっと家の玄関前までたどりつき、大きい溜息《ためいき》を一つ吐いてから、ガラリと玄関の戸をあけて、
「ただいま!」
それこそ、清く明るくほがらかに、帰宅の報知をするつもりが、むざんや、いつも声がしゃがれる。
「やあ、お父さんが帰って来た」
と七歳の長女。
「まあ、お父さん、いったいどこへ行っていらしたんです」
と赤ん坊を抱いてその母も出て来る。
とっさに、うまい嘘《うそ》も思い浮ばず、
「あちこち、あちこち」
と言い、
「皆、めしはすんだのか」
などと、必死のごまかしの質問を発し、二重まわしを脱いで、部屋に一歩踏み込むと、箪笥《たんす》の上からラジオの声。
「買ったのかい? これを」
私には外泊の弱味がある。怒る事が出来なかった。
「これは、マサ子のよ」
と七歳の長女は得意顔で、
「お母さんと一緒に吉祥寺へ行って、買って来たのよ」
「それは、よかったねえ」
と父は子供には、あいそを言い、それから母に向って小声で、
「高かったろう。いくらだった?」
千いくらだったと母は答える。
「高い。いったいお前は、どこから、そんな大金を算段出来たの?」
父は酒と煙草とおいしい副食物のために、いつもお金に窮して、それこそ、あちこち、あちこちの出版社から、ひどい借金をしてしまって、いきおい家庭は貧寒、母の財布には、せいぜい百円紙幣三、四枚、というのが、全くいつわりの無い実状なのである。
「お父さんの一晩のお酒代にも足りないのに、大金だなんて、……」
母もさすがに呆れたのか、笑いながら陳弁するには、お父さんのお留守のあいだに雑誌社のかたが原稿料をとどけて下さったので、この折と吉祥寺へ行って、思い切って買ってしまいました、この受信機が一ばん安かったのです、マサ子も可哀想ですよ、来年は学校ですから、ラジオでもって、少し音楽の教育をしてやらなければなりません、また私だって、夜おそくまであなたの御帰宅を待ちながら、つくろいものなんかしている時、ラジオでも聞いていると、どんなに気がまぎれて助かるかわかりませんわ。
「めしにしよう」
こんな経
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