と、いささかも威儀を崩さず小坂氏が控《ひか》えているのだ。五分、十分、私は足袋と悪戦苦闘を続けた。やっと両方|履《は》き了《お》えた。
「さあ、どうぞ。」小坂氏は何事も無かったような落ちついた御態度で私を奥の座敷に案内した。小坂氏の夫人は既に御他界の様子で、何もかも小坂氏おひとりで処置なさっているらしかった。
私は足袋のために、もうへとへとであった。それでも、持参の結納の品々を白木の台に載せて差し出し、
「このたびは、まことに、――」と礼法全書で習いおぼえた口上を述べ、「幾久しゅうお願い申上げます。」と、どうやら無事に言い納めた時に、三十歳を少し越えたくらいの美しい人があらわれ、しとやかに一礼して、
「はじめてお目にかかります。正子の姉でございます。」
「は、幾久しゅうお願い申上げます。」と私は少しまごついてお辞儀した。つづいて、またひとり、三十ちょっと前くらいの美しい人があらわれ、これもやはり、姉でございます、という御挨拶をなさるのである。四方八方に、幾久しゅう、幾久しゅうとばかり言うのも、まがぬけているような気がして、こんどは、
「末永くお願い申します。」と言った。とたんに今度は
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