と、いささかも威儀を崩さず小坂氏が控《ひか》えているのだ。五分、十分、私は足袋と悪戦苦闘を続けた。やっと両方|履《は》き了《お》えた。
「さあ、どうぞ。」小坂氏は何事も無かったような落ちついた御態度で私を奥の座敷に案内した。小坂氏の夫人は既に御他界の様子で、何もかも小坂氏おひとりで処置なさっているらしかった。
私は足袋のために、もうへとへとであった。それでも、持参の結納の品々を白木の台に載せて差し出し、
「このたびは、まことに、――」と礼法全書で習いおぼえた口上を述べ、「幾久しゅうお願い申上げます。」と、どうやら無事に言い納めた時に、三十歳を少し越えたくらいの美しい人があらわれ、しとやかに一礼して、
「はじめてお目にかかります。正子の姉でございます。」
「は、幾久しゅうお願い申上げます。」と私は少しまごついてお辞儀した。つづいて、またひとり、三十ちょっと前くらいの美しい人があらわれ、これもやはり、姉でございます、という御挨拶をなさるのである。四方八方に、幾久しゅう、幾久しゅうとばかり言うのも、まがぬけているような気がして、こんどは、
「末永くお願い申します。」と言った。とたんに今度は、いよいよ令嬢の出現だ。緑いろの着物を着て、はにかんで挨拶した。私は、その時はじめて、その正子さんにお目にかかったわけである。ひどく若い。そうして美人だ。私は友人の幸福を思って微笑した。
「や、おめでとう。」いまに親友の細君になるひとだ。私は少し親しげな、ぞんざいな言葉を遣《つか》って、「よろしく願います。」
姉さんたちは、いろいろと御馳走《ごちそう》を運んで来る。上の姉さんには、五つくらいの男の子がまつわり附いている。下の姉さんには、三つくらいの女の子が、よちよち附いて歩いている。
「さ、ひとつ。」小坂氏は私にビイルをついでくれた。「あいにくどうも、お相手を申上げる者がいないので。――私も若い時には、大酒を飲んだものですが、いまはもう、さっぱり駄目になりました。」笑って、そうして、美事に禿げて光っているおつむを、つるりと撫でた。
「失礼ですが、おいくつで?」
「九でございます。」
「五十?」
「いいえ、六十九で。」
「それは、お達者です。先日はじめてお目にかかった時から、そう思っていたのですが、御士族でいらっしゃるのではございませんか?」
「おそれいります。会津の藩士でございます
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