よいよ森閑《しんかん》として、読者は、思はずこの世のくらしの侘びしさに身ぶるひをする、といふ様な仕組みになつてゐた。
 同じ扉の音でも、まるつきり違つた効果を出す場合がある。これも作者の名は、忘れた。イギリスのブルウストツキングであるといふことだけは、間違ひないやうだ。ランタアンといふ短篇小説である。たいへん難渋の文章で、私は、おしまひまで読めなかつた。神魂かたむけて書き綴つた文章なのであらう。細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪へがたい焦躁に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまはつてゐるのである。隣の部屋からキンキン早すぎる廻転の安蓄音器が、きしりわめく。私は、そこまで読んで、息もたえだえの思ひであつた。
 ヘロインは、ふらふら立つて鎧扉を押しあける。かつと烈日、どつと黄塵。からつ風が、ばたん、と入口のドアを開け放つ。つづいて、ちかくの扉が、ばたんばたん、ばたんばたん、十も二十も、際限なく開閉。私は、ごみつぽい雑巾で顔をさかさに撫でられたやうな思ひがした。みな寝しづまつたころ、三十歳くらゐのヘロインは、ラン
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