ね。向うの茶店は、見はらしがよくていいだろうと思うんですけど。」
「同じ事だよ。近いほうがいい。」
一ばん近くの汚い茶店にのこのこはいって行って、腰をおろす。
「何か、たべたいね。」
「そうですね。甘酒かおしるこか。」
「何か、たべたいね。」
「さあ、ほかに何も、おいしいものなんて、ないでしょう?」
「親子どんぶりのようなものが、ないだろうか。」老人の癖に大食なのである。
私は赤面するばかりである。先生は、親子どんぶり。私は、おしるこ。たべ終って、
「どんぶりも大きいし、ごはんの量も多いね。」
「でも、まずかったでしょう?」
「まずいね。」
また立ち上って、すたすた歩く。先生には、少しも落ちつきがない。中の島の水族館にはいる。
「先生、見事な緋鯉《ひごい》でしょう?」
「見事だね。」すぐ次にうつる。
「先生、これ鮎《あゆ》。やっぱり姿がいいですね。」
「ああ、泳いでるね。」次にうつる。少しも見ていない。
「こんどは鰻《うなぎ》です。面白いですね。みんな砂の上に寝そべっていやがる。先生、どこを見ているんですか?」
「うん、鰻。生きているね。」とんちんかんな事ばかり言って、どんどん先へ歩いて行く。
突然、先生はけたたましい叫び声を上げた。
「やあ! 君、山椒魚だ! 山椒魚。たしかに山椒魚だ。生きているじゃないか、君、おそるべきものだねえ。」前世の因縁とでも言うべきか、先生は、その水族館の山椒魚をひとめ見たとたんに、のぼせてしまったのである。
「はじめてだ。」先生は唸《うな》るようにして言うのである。「はじめて見た。いや、前にも幾度か見たことがあるような気がするが、こんなに真近かに、あからさまに見たのは、はじめてだ。君、古代のにおいがするじゃないか。深山の巒気《らんき》が立ちのぼるようだ。ランキのランは、言うという字に糸を二つに山だ。深山の精気といってもいいだろう。おどろくべきものだ。ううむ。」やたらに唸るのである。私は恥ずかしくてたまらない。
「山椒魚がお気にいったとは意外です。どこが、そんなにいいんでしょう。もっとも、僕たちの先輩で、山椒魚の小説をお書きになった方もあるには、ありますけど。」
「そうだろう。」先生は、しさいらしく首肯して、「必ずやそれは、傑作でしょう。君たちには、まだまだ、この幽玄な、けもの、いや、魚類、いや、」ひどくあわてはじめた。顔をあから
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